映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『絞殺魔』(1968年)憚られる映画

監督:リチャード・フライシャー


実際にあった事件(ボストン絞殺魔事件)をもとに、犯人逮捕から約3年後に封切られた映画です。

女性ばかりを狙った猟奇的な絞殺事件がボストンで連続して起こり、刑事と検事が捜査をして犯人を捕まえるのですが、犯人は犯行時の記憶を持っておらず、検事が犯人の記憶を引き出していく、というストーリーです。

かなり書いてしまいますので、まだ観ていないなら是非観て楽しんでから、読んで楽しんで貰えたらいいなと思います。

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予備知識で分割画面を使用した映画というのは知っていて、どういう効果を生むのだろうか?と懐疑的に観ていたのですが、左画面に薄暗い部屋に横たわる死体目線。右画面に、第一発見者になるであろう人たちの死体発見までの様子が映し出される場面が3度あり、その3度目に、それまでにはあった第一発見者の死体発見時の悲鳴が無く、お笑いでいうところの天丼を微妙に外された気持ちになったところで、この分割画面による死体発見場面が楽しいことに気づかされます。この2つの画面を同時に観る楽しさは、絶対喜ぶプレゼントを渡して、相手がプレゼントを確認して喜ぶまでを見ている感覚とほとんど同じです。

刑事たちは、怪しい奴に片っ端から当たりますが捜査は難航します。そこで上層部から能力を見込まれて検事が捜査隊の指揮官としてやってくるのですが、刑事たちにとっては素人の偉いさんなわけで、当然距離をとります。そこで検事はどうしたかというと、今回も空振り、捕まえた奴はイカれてて、かつ暴れる、という刑事たちのフラストレーションが相当高まっているであろうタイミングで、その見当違いの容疑者をぶん殴ってみせるのです。その後、刑事は笑顔で「規則で殴っては駄目なんですよ」と言い、それに対して検事は「(素人だから)知らなかったものでね」と返すのですが、このやり取りから、刑事と検事の間に既にそれまでとは違った関係性が出来ていることがわかります。
拳一発により、検事が切れ者だとわかり、刑事たちとの関係性がわかり、その関係性が変わったことまでもわかるのですが、そのことが拳一発でわかるように映画が組み立てられていたことに、拳一発で気づくのです。

このワンアクション、ワンカットでわかる、変わる、という見せ方は他にもあります。
映画前半部におよそ思いつく限りの猟奇殺人者像が列挙されていまして、それっぽい人が軽快なテンポでどんどん出てくるのですが、ふとブルーカラーな雰囲気をまとった男が、ケネディ暗殺事件のニュースが流れるテレビを沈痛な面持ちで見つめているカットが出てきた瞬間、もう間違いなくこいつが犯人だろうと、どういうわけか確信出来るのです。
異常な犯罪を、一見そうとは思えぬ人物が行っていた、というのは今では珍しくない犯人像だと思いますが、その多くは、一見そうとは思えぬ人物として見せるために、穏やかさや優しさなどのポジティブな振る舞いをことさら強調するため、かえって白々しさが生じてしまい、その白々しさゆえに、こいつが犯人なのではないかという疑いを抱いてしまいます。しかし、『絞殺魔』では悲しんでいるというネガティヴな状態を選択したことで、それまでテンポの良い刑事モノとしてあった映画の進行に悲しみという静かな停滞が起こり、その変化に対する気づきが、こいつが犯人であるという確信を生じさせています。

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この映画は猟奇殺人を描きながら、殺人場面は出てきません。暴力場面もほとんど無いのですが、犯人が女の衣類を破きながら、それを紐代わりにして女をベッドに括りつけていく場面があります。足を縛り、手を縛りという行為を、犯人は一連の作業として手慣れた様子で行っていきます。衣類をビリビリと破くと、その後縛るために必ず木製のベッドの淵にナイフをドンと刺して両手を使える状態にするのですが、これら一連の動作と音が、女の髪の毛を引っつかんで殴る、殴られて倒れた女を力で引き寄せてまた殴る、などの行為を想起させるリズムと音のため、手慣れた様子で女をベッドに縛り付ける行為が直接的な物凄い暴力に感じられます。
暴力の雰囲気や暴力のようなものは、暴力を受けている感覚に近く、こんな感じで殺されました、と見せられるよりも、暴力に対する距離を取り難くさせるため、本当に怖いと思わされます。
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犯人逮捕の場面もとてもリズミカルな長回しで必見です。ピタゴラ装置のように、仕掛けの展開でリズムがつくられていて、犯人があれよあれよという間に確保されるのが見ていて楽しいです。

この逮捕は、世間を騒がす絞殺魔としてではなく、住居侵入強盗未遂の疑い程度だったのですが、犯人の言動に奇妙なものがあり、取り調べが難航する内に絞殺魔の疑いが浮上し、検事たちが取り調べることになっていきます。
全ての条件が絞殺魔と合致するにも関わらず、犯人が犯行時の記憶を持っておらず、二重人格者であることがわかり、検事は対話によって絞殺犯の人格を呼び出す試みを始めます。
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この映画の凄いところは、この後の展開が、彼が本当に犯人なのか、猟奇的な事件を起こす犯罪者とはどのような人間か、などといった興味には行かずに、自分が猟奇殺人犯だと知ったら彼はどうなるのか?という好奇心に近い問いに向かって進んでいくところです。
検事は、それが残酷な好奇心であることを認識しながら、医者に止められても、犯人が記憶を蘇らせ自覚するように促して行きます。
それで最後は、犯行時の記憶が蘇り、犯行を自覚したと思われる犯人が、事実を受け入れられなかったのか、防衛本能なのかわかりませんが無になってしまい、こうなることを予想していたであろう検事が、犯人の名前を虚しく呼びかける声が響いて終わります。
適切な例えでないことは承知していますが、ネット動画で、水が張られたタライと綿あめを受け取るアライグマが映し出された瞬間に湧き上がった好奇心を思い出しました。アライグマは当然、受け取った綿あめをタライで洗おうとするのですが、タライに入れた綿あめは一瞬で消えてしまい、見ていて虚しくなりました。

検事の好奇心に同調しながら、犯人が無になった瞬間、こうなることはわかってたのに、と虚しくなり、かつての好奇心が罪悪感に取って代わるのです。

この映画は、単純な見る楽しさに満ち溢れています。実際にあった事件を描いた映画がこんなに楽しくていいのだろうか、と思うと同時に、事件から時を置かずして映画化されていることを思うと、当時この映画を見た人は、事件に対する好奇心を満たそうという思いを少なからず持って鑑賞したと思うのですが、この結末には相当ショックを受けたのではないでしょうか。事件に対する好奇心を満たすために見世物として存分に楽しませつつ、好奇心そのものを自覚させ、その好奇心の残酷さを見せつけています。
このような映画を確信的に撮れるリチャード・フライシャー監督は相当な手練です。