映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『岸辺の旅』(2015年)優介の授業について

監督:黒沢清


前回の記事で書いた、この映画の波について、もう少し書きます。
映画を観てないとわからないと思います。

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優介は、とある村で授業をしています。それは、彼らを存在させている映画についての授業であり、映画という、彼らの世界についての授業です。その授業で優介は、映画の原子について語っています。彼らの世界を構成する原子とはいったいどのようなものなのかが語られています。前々回の記事『鑑定士と顔のない依頼人』(2013年)の中で、光の要素の無いものは映画のメタファーになりえないと書いたのですが、それは光が無ければ映画が存在しないからです。映画は光で出来ています。質量を持たない光の粒の集合体が波打つことで映画は存在します。
また前回の記事で、死者が消失する時にカットが割られていると書きました。そして、そのカットとカットの境目に波があると書いたわけですが、この波とは、優介の授業の中で語られている波です。優介が語った、波をどんどん狭めていって無になった波。それが、カットとカットの境目そのものなのです。
なので、優介の言う「どうもこの世界は無から出来ているようです」とは、映画の原子は無であり、映画は無から出来ているようだ、と語っているわけです。映画を存在させる光と波は、原子レベルの小さな粒(そのもの、単体)では無であり、その無が集り出来ているのが映画だと言っているのです。
そして確かに、カットとカットの境目という波の原子である無が、この映画の中にはあるのです。アングルの変化により、そこには何も無いのにあるとわかるのです。しかもこの映画の波の原子は物語と有機的に結びついています。他のどの波よりも強く結びついています。

当たり前ですが、映画は宇宙の理により存在しています。そこから逃れて存在するものはありません。そして宇宙には、まだ判明していない暗黒物質や暗黒エネルギーが存在すると考えられています。まだ判明していない未知の物質やエネルギーが、映画を広げたり、進めたりするかもしれない。私は映画の始まりに立ち会えて幸せだ、と優介は言うのです。優介は、彼の世界である映画だけではなく、映画と私たちの世界を内包する宇宙について、肯定と希望を語り授業を終えます。


映画は、私たちの世界とは事象のあり方が違う別世界です。その別世界の原子を示し、宇宙の理によって存在している2つの世界の繋がりを示し、それを肯定するという、凄まじいスケールの映画なんですよね。それを可能にした物語も凄いですが。
まだ理解出来ていないショットもあるので、しばらく思い出しつつ、間を空けてまた観ようかな。