映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『鑑定士と顔のない依頼人』(2013年)感想・ネタバレ

監督:ジュゼッペ・トルナトーレ


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クレアが何者なのかが分かるにつれ、組み立てられていくオートマタ。偽りの存在だったクレアと完成したオートマタ。オートマタは人の姿を模しているばかりか、繰り返される複製された声まで備えています。さらにクレアの偽りの邸宅は映画の撮影でよく使われる、ときたらナゾナゾではありませんが、クレアは女優で、オートマタは映画のメタファーで、ヴァージルは映画を観ていた、と捉えたらよいのでしょうか。
「贋作の中にも真実がある」というヴァージルの言葉は、愛が偽りだったことに気づいた後に、「贋作の中に真実を見出せるか(映画の中に真実を見出せるか)」という問い掛けに変わり、ヴァージルに迫ります。そして映画はオートマタの内部(映写機)のような内装のカフェ「ナイト&デイ(昼も夜も)」で、ヴァージルが真実の訪れを待ち続ける様子とともに終わりをむかえます。

一応、表向きの物語は観たままなのでいいとして、わかりやすく提示されたメタファーを踏まえて物語を観ると、上記のような理解になりました。

これは、スコセッシの『ヒューゴの不思議な発明』(2011年)を観た時も思いましたが、オートマタは映画のメタファーとして用いるには正確性を欠くアイテムです。歯車と人形の関係は、映写機と役者の関係に呼応するのは分かるのですが、光が無ければ存在しない映画を、光の要素が無いものを用いてメタファーとするのは無理があります。
ここで用いられたオートマタは、広義の括りでは『A.I.』(2001年)のデイビッドと同じ扱いになりますが、デイビッドは「光ファイバーで出来ている」(ヘンリーの台詞より)ので、映画のメタファーとしての条件をクリアしています。スマートなやり方ではないですが、映画のメタファーとしての条件をクリアする為に、この「光ファイバーで出来ている」という台詞をスピルバーグはわざわざ入れています。メタファーの正確性は、文章における言葉の定義に相当し、ここが揺らぐと映画全体が不明瞭なものになるので、多少無理をしてでも正確性を示さなければなりません。

あと、字幕の問題なのかもしれませんが、贋作という言葉を偽りと同義とし、映画のメタファーとして使用しているのにも無理を感じます。偽りと映画を対応させるのは分かるのですが、贋作は模倣を意味し、映画に現実の模倣という狭義の括りを与えます。オートマタにしても美術品・古美術という括りの中ではオリジナルであり、特定の人物を模した人形でない限り、直接には人の偽りの姿として捉えるには説得力が弱いのです。なまじ美術の世界を舞台にしているせいで、美術的な言葉や物の定義と、メタファーとして機能しなくてはならないものの意味が完全には一致せず、ぼやけた印象になっています。