映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『ダークナイト ライジング』(2012年)感想・ネタバレ

監督:クリストファー・ノーラン
アメリカ・イギリス共同製作映画


冒頭には、ベイン(トム・ハーディ)による飛行機ジャック。そして、ブルース・ウェインクリスチャン・ベール)の足の怪我。これは9.11以降の話なのだ、ということでしょうか。『ヒックとドラゴン』(2010年)以降、飛行物体と足の怪我といえば、9.11アメリカ同時多発テロ事件のことだと自分の中で相場が決まってしまったので、そうであるとして話しを進めますが、今作では9.11以降である、とハッキリ示す必要があるようです。

ダークナイト ライジング』を観て、核爆弾(中性子爆弾)の爆発を何とかして食い止めようとする、核爆弾カウントダウン映画だったことに驚きました。
もはや映画の題材として廃れた感のある核爆弾が、まさかこの大ヒットシリーズである、ノーラン版バットマン3部作のラスト『ダークナイト ライジング』で用いられるとは思いもよらなかったためです。『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(2008年 監督:スティーヴン・スピルバーグ)では、映画冒頭らへんでのちょっとした賑やかし程度の扱いで核爆発が用いられています。このスピルバーグの核の扱いは極端な例だとしても、もはや核爆弾で物語を牽引するのは難しく、核爆弾が爆発するかしないか、で最後まで引っ張る映画は少なくなっています。
そもそも過去、映画の中で核爆弾が多く描かれた背景には、東西冷戦下という世界情勢が大きく関係しています。1発の核爆弾が爆発することで、核戦争が始まるのではないか、という予感があった時代です。東西冷戦下において核は、映画の中で、世界の命運を象徴するものとして用いられていました。核がどうなるか=世界がどうなるか、だったわけです。しかし冷戦が終わり、1発の核爆弾の爆発の影響が局所的なものだということが分かり、核爆弾爆発後も世界は変わらず在り続ける時代の到来により、映画の中で、世界の命運を象徴するものとしての核爆弾は徐々に消えていきます。

では、なぜノーランは『ダークナイト ライジング』で核爆弾を大きく用いたのか。
この説明をするためには、ゴッサムシティが「衆愚の町」といわれる所以について考えなくてはなりません。衆愚という言葉を調べてみると、愚かな人々、自覚の無い無知な民衆、などという意味のようです。ゴッサムシティを世界の縮図であるとザックリ捉え、大衆なんてバカだ、多数になると人間は大概愚かだ、と言えなくもないですが、もっと簡単に愚かだと分かる特徴がゴッサムシティにはあります。
それは、「おらが町ゴッサムシティ」の世界観です。バットマンの世界では、現実社会でいうところの世界や国が明確に描かれません。どこまでもゴッサムシティが舞台の物語です。世界や国、そういったものに想像を巡らせることなく、どこまでも「おらが町ゴッサムシティ」な世界観や想像力で生きている人々がいる町。その世界観の狭さや、想像力の欠如が「衆愚の町」たる所以であり、愚かさを表す何よりの特徴だといえます。

バットマンの世界において、世界とはゴッサムシティであると考えると、町であるが故に軍隊が無く、ベインたちが起こしたような大規模なテロ行為に対して、対抗する機構を持っていないことが分かります。そして世界が町であるということは、核爆弾による局所的な破壊はそのまま世界の終焉を意味します。東西冷戦下時代に作られた映画のように、未だゴッサムシティにおいては核爆弾が世界の命運を象徴するものとして機能するのです。
ゴッサムシティは、東西冷戦下における核爆弾による世界が終わる恐怖を、現代の都市型テロを用いて描くことの出来る特異な町なのです。
なので、デント法によりゴッサムシティ内部の悪が一掃され、存在意義を無くしていたバットマンでしたが、ベインたちが起こす大規模なテロ行為に対し一人だけの軍隊として、この世界においてバットマンのみが対抗し得ることに気づきます。
しかし、軍は敗れます。正確には軍だけでは敗れてしまいます。

「おらが町ゴッサムシティ」に持ち込まれた世界の終焉をもたらす核爆弾。そして、果てしなくゴッサムシティが続く世界は、アメリカ本土と結ばれる橋の爆破と封鎖により、その外縁が浮かび上がり、衆愚の想像力で出来た愚かな世界(町)が姿を現します。それは秩序を失い、力に怯え、狭い世界で想像力も無く刹那的に生きる人々の姿でした。
そんな町の中で、ノーランが肯定的に描いているのはジョン・ブレイク(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)や孤児院の子供たちがチョークで描くバットシグナルです(劇中では、バットシグナル同様に、希望を表す場面で蝙蝠が登場します)。これはゴッサムシティにおける唯一の空想であり希望であるかのようです。
とても希望を持てない状況で、誰かが希望的なビジョンを持っている、という希望。
物語中程にブルースが奈落へと落とされてしまいますが、ここらへんの描写は『ネバーエンディング・ストーリー』(1984年 監督:ウォルフガング・ペーターゼン)や『ガーディアンズ 伝説の勇者たち』(2012年 監督:ピーター・ラムジー)のように、夢を見る側と、夢として見られる側を平行して描き、「信じる心が存在させる」といったファンタジーにおける存在論と同様の印象を受けました。

その後ブルースを含め、希望を信じて絶望と立ち向かう人々の思いが、バットマンゴッサムシティに蘇らせます。
そしてゴードン(ゲイリー・オールドマン)の手により、夜のゴッサムシティにバットシグナルの灯りがともると、既に希望を失った人々(象徴的に描かれるピーター・フォーリー副本部長:マシュー・モディーン)の心にも希望が蘇ります。バットマンが希望の具現化であるならば、ゴッサムシティに希望がある限り、バットマンは存在し続けます。

そして物語終盤の、ゴッサムシティの果てで起こる核爆発は、町の人々に世界の外を見せます。ゴッサムシティに影響の無いところ(ゴッサムシティの外)で核爆発が起こり、その爆発はゴッサムシティを守るための戦いの結果起こったものである、という認識は、町の人々の世界のありように対する認識を大きく変えるはずです。世界(町)の外と町が、核爆発により繋がったのです。「おらが町ゴッサムシティ」で想像力も持たず暮らしていた人々は、自身を取り巻く世界の広さと、そこで起こる出来事の重大さに気づくことで、衆愚では無くなります。

そして、核爆発により死んだと思われていたブルースが生きている事が分かる数々の描写は、バットマンブルース・ウェインを表すために示されます。バットマンの存在の有無は、ブルースの生死を問わないのです。バットマンの存在の有無は、ゴッサムシティの希望の有無であり、そのことに気がつけば、バットマンとはブルースの死によって引き継がれる類のものでは無く、ブルースがゴードンに言ったように「どこにでもいる」ものなのです。ブルース自身がそのことに気づいた結果、アルフレッドがかつて望んだように、彼はバットマン以外の人生を歩み始めます。
そして、その意思はロビンへと引き継がれていくのです。


まじめにまとめるとこんな感じでしょうか。
バットマンの世界において、ゴッサムシティの外縁を設けてみせるのは面白い試みだし、核爆弾を使って一つのフィクション世界を破壊しようとするのも面白いのですが、3時間弱使っても、なんか上手くいきませんでしたね。『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』(1984年)や『ダークシティ』(1998年)までやってしまうのはまずかったのでしょうか。ビジュアル面でのリアル志向と、今回の話が噛み合っていない印象です。そもそもビジュアルがリアルなために、その(フィクション)世界の外というのが絵として設けられなかったし、物語途中で奈落という抽象的な場所が描かれたために上手く外縁が示せていないように感じました。『バットマン ビギンズ』(2005年)寄りのゴッサムシティに戻してもよかったんじゃないでしょうか。
後半にいくにつれ、話がぐんぐんファンタジーになっていくわけですが、リアルゴッサムには日が昇ってしまって、真昼間からいい大人が何してんの、という絵になっていきます。ミランダ・テイト(マリオン・コティヤール)が死ぬ場面のバットマン、ゴードン、セリーナの3ショットなんて、大分間抜けでしたね。
C・ノーランの描くバットマンは、過去2作をボンヤリ思い出してみても格好良かった印象が無く、むしろ危ない人(ヤバめの人)の印象しかないのですが、今回のゴードンに発炎筒を渡して、火を点けさせてバットシグナル炎上の場面は、バットマンが一人でサプライズパーティよろしく仕込んで、且つバットシグナル点灯させるのはゴードンの役目だから、という俺ルールを発動させて、氷がいつ割れるか分からない状況で火を使ってゴードンに点灯式させるなんて、やっぱり正気じゃないです。ジョン・ブレイクを助ける場面で、長々と敵を倒してみせるのも地味にキてます。3作通して、自分でコスチュームやマークやアイテムやルールを作ってヒーローをやろうとする金持ちのヤバさ、はブレずに描かれていて好感が持てます。敵のマスクの理由が薬を注入するためなんてのも、格好でマスクしてるバットマン潰しですよ。
リアルな世界観でバットマンを描いたら危ない人になる、というのは基本コンセプトとしてあったのでしょうが、そこらへんともライジングの話は絡み合わなかったですね。