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映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『ミスティック・リバー』(2003年)について

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監督:クリント・イーストウッド

公開から10年以上が経ち、『ミスティック・リバー』を観ました。
良い評判は聞いていたのですが、暗そう、というのがズルズルと先延ばしにしていた大きな理由です。

以下ネタバレします。

冒頭からジミー(ショーン・ペン)の子供時代を演じた子役がショーン・ペンそっくりな事に感動しました。この子供がショーン・ペンになるのだな、とスッと頭に入ってきます。

ボストンの片田舎に住む幼馴染み3人。ジミー、ショーン、デイヴは、いつも近所の通りで遊んでいました。いつものようにホッケーをして遊んでいた時、ボールが路肩の下水溝の入口の穴に入って取れなくなってしまいます。通りで遊んでいる時によくあるアクシデントで、気がそがれた悪ガキのジミーは、鍵のかかった車を乗り回そうと言い出します。渋るショーンとデイヴ。
その時、ジミーは舗装中の歩道のセメントが生乾き状態であることに気づき、車がダメならここに名前を刻もう、と提案します。ジミーが書き、ショーンが書き、デイヴが書いていると、通りに一台の車が止まり、2人の男が出てきます。2人の男は警察で、3人の悪戯を激しく叱責し、親に報告をすると言い出しました。それぞれの住所を尋ねてくる男。ショーンはすぐそこの家を指し、ジミーはあっちと曖昧に返事を返します。デイヴが別の通りにある家の住所を告げたところ、彼らはそこへ今すぐ行って悪事を親に告げると言い、デイヴを車に乗せて行ってしまいます。成す術もなく車を見送るジミーとショーン
その後、デイヴは行方不明になります。車の男2人組は、警察などではなく小児性愛者で、暴行するためにデイヴを連れ去ったのでした。
4日後、デイヴは自力で町へ戻ってきます。しかし、3人は以前のように遊ぶことは無くなり、そのまま疎遠になってしまいます。

25年後、ジミーの娘ケイティが何者かにより殺害された事件をきっかけに3人は再会します。
ジミーは被害者の父親として。
ショーンは捜査官として。
デイヴは容疑者の一人として。

彼らは、車に乗った乗らなかったの違いが運命を分けたかのように劇中で語るのですが、子供の頃にホッケーをして遊んでいて、ボールを下水溝の入口の穴に落としています。あのホッケーのボールは、そのままホッケーのスティックで殴られて殺され、古いクマの檻の穴に落とされたケイティと劇中での印象が重なります。そしてデイヴ曰く、下水溝の穴には「落ちたボールが1000個はある」のです。この事から分かるのは、彼らは、いつからか選択の余地のない止められない流れの中にいて、それはとてもありふれたことだということです。

その流れは川に象徴されます。
そして流れる川と、子供の頃に彼らがよく遊んでいたボストンの通りはイメージが重なります。白昼にデイヴが車で連れ去られて行ってしまう映画冒頭の場面は、川で溺れて流されていく子供と、それを成す術もなく見つめる子供たちのようにも見えます。
連れ去られたデイヴは、見つからないまま4日が経過。川に流された子供が4日も見つからなければ死んでしまったと思うでしょう。町の人々も、ジミーもショーンも、あの時デイヴは死んだと思ったのではないでしょうか。
デイヴの帰還過程での、獣の声に追われながら森を駆け抜ける場面も、帰還後のたそがれ時に薄暗い窓辺の奥へ表情も見せず消えていく場面も、どこか幻想的で、そこだけファンダジーかホラーのように描かれています。まるでデイヴが異界の存在であるかのようです。

イーストウッドの映画は、『グラン・トリノ』(2008年)と『ヒア・アフター』(2010年)しか観ていないのですが、尊厳の喪失と物理的な死が同義で表されている印象があります。この映画も、小児性愛者により暴行を受け、尊厳を奪われるデイヴを、川で溺れ流されて行く子供のように描いている事から、その後のデイヴは死者のようなものとして扱われているのではないかと思われます。

ジミーの娘ケイティ殺害事件が起こり、ジミーはケイティの死体確認直後「あの時」の話をします。「あの時」とケイティの死は、映画の中では過去の出来事として現在と直結され、たて続けに示されますが、実際はその間に25年間の隔たりがあり、2つの事件に直接的な関連はありません。それではなぜ時を隔てた2つの出来事が、まるでつながりがあるかのように語られるのでしょうか。

ジミーは、「もし「あの時」デイヴではなく自分が連れ去られていたら、自分は腑抜けになって、ケイティの母親のような女を口説くことはできなかった。そうすればケイティは生まれなかった。生まれなければ殺されることもなかった。」といった内容の話をします。
娘の死に父親が悲観的になり、運命の分かれ目まで遡って語ることはままあるでしょう。あの時ああしていればよかった、こうしておけばよかった、と。しかし、娘が生まれるずっと前の出来事までというのは、遡りすぎていると感じます。何故ジミーは、自分の子供の頃の出来事の「あの時」にまで遡ったのか。この台詞からは、酷い目に遭った娘への同情と共に、ジミーにとって、「あの時」車に乗らなかった者の証としてケイティの存在があったことが分かります。
ケイティの母親が生きていた時は、母親とケイティがジミーにとっての「あの時」車に乗らなかったことを証明する存在でした。しかし母親はケイティが幼い頃に亡くなっていることから、現在ではケイティだけが唯一の、ジミーが車に乗らなかった者であることを証明する存在だったのです。
25年前まで、ジミー、ショーン、デイヴは同じ川の流れ(ボストンの通り)の中にいました。しかし、デイヴの誘拐事件をきっかけに、3人はそれぞれ別の流れへと分かれていったかのようです。しかし、そのような流れは目に見えるものではありません。ショーンは町を離れ、物理的に「あの時」にまつわる場所と人から距離を置いていますが、ジミーは「あの時」と同じ町で暮らし続けています。ケイティを亡くした今、ジミーは自分がデイヴ(尊厳を喪失した者)と別の流れに本当にいるのか不安になるのです。
このことは同時に、ジミーがずっと「あの時」から不安を抱えていたということを意味します。その不安の最大の理由は、「あの時」にデイヴが生きて戻ったことにあります。もしデイヴが「あの時」死んでいたら、間違いなく犠牲者はデイヴだと誰もが思えたはずです。でもデイヴは生きていて今も同じ町で暮らしています。
(「あの時」の犠牲者は、デイヴなのか俺なのか。本当は俺が犠牲者なのに、その事に俺は気づいていないのではないか。)という、頭では違うと分かっていても、過る疑念を拭えない不安。
ケイティを失った今、ジミーは「あの時」自分が車に乗った者なのか、乗らなかった者なのか、その境目が曖昧になってしまいます。

映画の中では、この作品に限らず、死者(亡霊)とアウトロー(犯罪者)は良く似た存在として描かれます。法の保護外にいるものとして、それ以外の者が容易く見れない・見てはいけないものとして。また、夜に現れるもの、姿をハッキリとは見せないもの、などなど共通点が多い存在です。ジミーが足をあらったアウトローなのも、デイヴが(死んだと思われた)被害者なのも、この2人を、どちらがどちらか分からなくなるほどに存在のありかたを近づけようとしているからだと思います。
おれがあいつであいつがおれで、ですね。

ここから逃れ、尊厳を見失わずに生きていくにはどうすればいいのか。ショーンの生き方に、その模索が感じられます。町を出て、アウトローと真逆の存在である警察になり、デイヴから、距離も存在も離れたものになるのです。それは偶然ではなく、ショーンはジミーと違い、過去の出来事により、自身が受けたトラウマを自覚していたのかもしれません。それで意識的に距離を取る選択を行い、離れたのかもしれません。
このショーンに纏わる話の流れが分からず、観た後しばらく悩みました。ヒントは無言の存在です。ショーンは妻と関係が上手くいっておらず、離れて暮らしています。妻は今どこにいて、何をしているのか分かりません。しかし、妻は頻繁にショーンに無言電話をかけます。無言電話から漏れる微かな音を頼りに、ショーンは妻の様子を想像し語りかけます。ショーンは妻を愛していて、妻からの無言電話に、関係修復へとつながる望みをかけているのです。
一見、ショーンが抱える問題は「あの時」の出来事とは関係がなさそうに思えます。しかし、彼が警察になったこと、妻との間に生じた問題が明かされないこと、妻とのツーショット写真を子供の頃の写真(ジミーとデイヴと一緒に写ったもの)と同じ束にして持っていることから、彼の今抱える問題は「あの時」の出来事の延長線上にあるのではないか、との推測も可能です。
そして、この映画にはもう一人、ショーンの妻とは別に無言の存在が登場します。ケイティの恋人であり、容疑者でもあるブレンダンの弟レイです。レイは生まれつき身体上の障害により口がきけません。物語のラストでは、このレイがケイティ殺しの真犯人の一人だということがショーン(と相棒のホワイティ)の捜査により明かされます。
ショーンは無言の妻を求め、捜査官として無言の犯人を追っていたのです。
この無言の存在は、ショーンが抱える問題に関係していると仮定すると、もう一つ見えてくるものがあります。
ケイティ殺しに使用された銃が、自分の父親の銃であることを警察での取り調べで知ったブレンダンは、急いで家にある父親の銃の隠し場所を確かめます。誰にも知られず、ずっと置いてあると思っていた銃はそこには無く、ブレンダンは殺人事件の真犯人に思い至ります。そしてブレンダンは唐突に、口のきけない弟レイに向かって「俺のことを愛しているか」と問いかけるのです。弟レイは「愛している」とジェスチャーで答えます。ブレンダンは「愛しているなら、そう言ってみろ。お前、本当は喋れるんだろう。喋ってみろ。なぜケイティを殺したのか言え」と詰め寄るのです。
この場面は、ジミーがデイヴにケイティ殺しの罪の自白を求める場面と交互に示されます。
一見、緊迫した場面を交互に示すことによって、自白の強要を迫っているジミーとブレンダンを対比しているかのようですが、ここで対比されているのは、ジミーとショーンです。そのことは、先に触れたブレンダンの「愛しているなら、そう言ってみろ。お前、本当は喋れるんだろう。喋ってみろ。」という台詞が示しています。生まれつき口がきけないレイとブレンダンは手話で会話することが出来、この場面以前に彼らがそのことに不都合を感じている描写がなかったことから、この台詞がどこからきた台詞なのか推測する必要があります。が、考えるまでもなく、それまでのショーンと妻との無言電話でのやりとりの描写などから、この台詞につながるのはショーンであり、この台詞はショーンの胸の内を表していることが分かります。
愛していると言ってくれ、なのです。

台詞の唐突さと、その内容からも、無言の存在と向き合っているのはショーンであり、口のきけないレイと向き合うブレンダンショーンの分身と見ることが出来ます。なので、自白を強要するクライマックスは、「あの時」からの流れで行き着いた先でジミーとショーンがそれぞれ答えを求め、追い詰められる場面です。
ブレンダンは激昂し、レイと共犯者であるレイの友人を殴ります。レイの首を締めながら、喋ってみろと叫ぶブレンダン。レイの友人は銃を手にし、激昂しているブレンダンに銃口を向けます。ショーンはちょうどそこへ捜査官として踏み込み、殴られ恐怖に怯えるレイの友人に銃口を向けられます。銃口の向かい先というブリッジにより、ブレンダンショーンが繋がります。
ここは恐怖の連鎖が起こっている場面であり、またブレンダンとレイの父親レイの銃が辿った軌跡から「あの時」の連鎖の先でもあるのです。ショーンは銃口を向けられながら、それを警察として、「あの時」の当事者として、恐怖に怯え、怒りに震える子供と向き合います。
そして、ショーンは子供を取り押え、ケイティ殺しの真犯人を捕えるのです。

一方、ジミーはデイヴを消せば尊厳喪失の不安から解放される、という妄執に突き動かされていきます。
デイヴを連れ去った小児性愛者の指輪にあった十字架からセレステの疑念、サベッジ兄弟の疑念、全ての場面に十字架が登場し、最後はジミーの背中に十字架が掲げられることから、「あの時」の罪が全てジミーへと受け継がれていく様は、まるで止められない運命のようです。
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川岸でジミーがデイヴにケイティを何故殺したのかと迫った時、デイヴは青春の夢をみたからだ、と答えます。自分には無かった夢を見たから殺したのだ、と嘘の自白をします。
夢なんかの為に殺したのか、とジミーは憤ります。
そして、自身の亡霊ともいえるデイヴを殺害してしまうのです。尊厳の証であるケイティを亡くし、デイヴが生きていることで尊厳の在り処に迷い、デイヴを消せば「あの時」の本当の被害者はデイヴだと思えるとジミーは思っていたはずです。しかし、自分の可能性であったデイヴを葬ることで、結局自分自身の尊厳をその手で殺してしまったのです。
尊厳とは何か、ということが問題になってくるのだとは思うのですが、ここでは正義や罪の意識と捉えていいかなと思ってます。
なので、ケイティ殺害の復讐としてジミーはデイヴを殺害したわけですが、それも真犯人は別にいて、それが間違いだったということも含めて、ジミーは彼の正義(尊厳)を失ったのです。

そしてジミーとショーンは、再び「あの時」と同じ通りに立ちます。
ショーンは、ジミーに語りかけます。「今が夢で、本当は今も俺たちは「あの時」にいて、3人で連れ去られて穴ぐらの中にいるんじゃないか。そして3人でその穴ぐらから必死で逃げようとしているんじゃないかと思う」と。
デイヴが語った夢は、デイヴだけではなく、ジミーもショーンも望んでいたでしょう。
3人でセメントに名前を刻まなければ、デイヴは誘拐されることはなかったかもしれない。
そして、名前が刻まれたセメントが、書きかけのデイヴの名前が、逃れられない「あの時」の証であり、時の停止そのものとして、ずっとそこにあり続けたのです。
あの刻まれた名前がなければ、幼い記憶の中で「あの時」は夢のような出来事として、いつしか消えていったのかもしれない。いや、そもそも名前を刻まなければ…といった逡巡が幾度も繰り返されてきたのです。
誰も夢を見ること、夢だと思うことが出来なかったのです。
ジミーは「あの時」にデイヴは消えたのだ、とショーンに告げます。その言葉に、同じ苦しみを見ていた幼馴染みが、苦しみの果てに尊厳を失ってしまったことをショーンは悟ります。
そして、デイヴが消え去った流れの方向へ向かって歩きだすジミーと、それとは逆の方向へ歩き出すショーンショーンの電話が鳴り、その妻からの無言電話に、俺が悪かった、戻ってきてほしい、と語りかけます。その言葉に妻が答え、ショーンの時が流れ始めます。「あの時」から続く流れに向き合ったショーンに、愛する妻の声という時の鐘の音が告げられるのです。
同じシチュエーションはジミーにも訪れます。ショーンと同じく懺悔の言葉を口にするジミー。しかし、その言葉は妻には届かず、妻はまるで悪魔のように、ジミーの左肩越しから暴力的な論理でジミーを肯定するのです。それぞれの妻の言葉は審判のように、彼らの進んだ流れがどのようなものなのかを明らかにします。

あの時、デイヴが流れていった通りをパレードは流れていきます。沢山の人々が通りを進んでいきます。それを眺めるジミーとショーンは対岸に位置し、もう交わることはありません。ショーンは人差し指でジミーを撃ってみせます。しかし、亡霊になった幼馴染みは「あの時」の中にいて、ショーンにはもう捉えることが出来ないのです。



長くなりました。
まだまだ書ききれない箇所はありますが、一応の流れは整理できたと思います。
まずは、とにかく凄い脚本です。
そして、全ての見えないものを、全て見せたイーストウッドは凄すぎます。本当は目に見えないもの、過去の記憶ですらセメントに書かれた名前として目に見えるようにし、十字架や喋らない人なんかもそうですが、概念みたいなものまで全部見せる。本当は全部見えないものなのに、それを見ているという不思議ったらないです。それが映画だ、と言われればそうなのですが、それがこんなにも出来ることが凄いです。
ショーンがいまいち分からなくて考え込んでいた時に、イーストウッドが若かったらショーンを演ってたのかなと、ふとそう思って、それ以降はケビン・ベーコンイーストウッドに置き換えて考えていました。最後の人差し指で撃つ仕草なんてイーストウッドっぽい気がするのですが、そんな事思いながら全然イーストウッドの映画を観てませんので、これから少しづつ観ていこうと思います。