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映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『借りぐらしのアリエッティ』(2010年)について

 そもそも特に興味を持っておらず見るつもりもなかったのですが、金曜ロードショーでチラ見し、お盆休みで完全に忘れてしまったと思っていたのですが、昨晩ベッドの中で急にあれは無いんじゃないか?と、この映画に関してのダメ出しが始まって眠れなくなってしまったので吐き出します。ネタバレします。

 悪い映画ではないです。
小人の少女に出会って開口一番「きれいだね」なんて言う気取った少年が出てきた時点で『南くんの恋人』路線は回避できたんじゃないですかね。アリエッティをペットのように扱う描写はなかったように思います。翔の「きれいだね」も『もののけ姫』のアシタカの台詞「そなたは美しい」からきているように感じました。共闘路線なんだろうな、と。だとすると「かわいい」なんて言ってしまうのはマズいということは分かっている、という事が分かります。

 他人の感想で、髪留めに使っている洗濯バサミが小さすぎるからリアリティが無いという持論で酷評していたりするのを読むと、アリエッティが赤い服を着ているのはいいのだろうか、と思ってしまうのですが、いいのでしょうか。個人的には洗濯バサミは本当にどうでもいいです。
 では何にダメ出ししてて眠れなくなったかというと、主に『庭』『翔とアリエッティがさよならした後のシーン』『色』の3点です。

この映画のジャンルはファンタジーですが、ファンタジーは暗喩によって幾重にも一つの場面に意味を重ね、少ない文字数や時間で多くの事を語ることが出来る、とても効率のいいジャンルなのではないかと思っているのですが、この映画の中に出てくる、あの『庭』はあれでいいのでしょうか。
なぜ庭をあのように、シャンプーのCMのセットみたいなカラフルな庭にしたのでしょうか。
この映画の『色』の問題にも関わってくることですが、この映画は単純に画を見て楽しめません。そのことと、あの庭は関係しているように思います。
まだ見てないのですが、『風立ちぬ』のポスターを見て、主人公と思しき男性が明るい薄紫色のスーツを着ていることに驚きました。生まれる前の時代ですが、そのような今では考えられない華やかな色のスーツをおしゃれでは無く自然に着ていた時代があったらしい、ぐらいの薄い認識が絵になって現前したからです。
あのスーツの色がベージュ色でも誰も何も言わなかったでしょう。でも明るい薄紫色にしたのです。
そういった色に関する感覚や判断基準がどこらへんにあるのか、このアニメ映画からは見えてきません。何とかこの映画を軽く見られないようにしたかったのか、ことごとく全体的に色が重いです。その重厚感、このアニメに本当に必要か、と思わずにはいられない。その為全体的に画が暗いのですが、その自覚があったからあんな庭にしたんじゃないの、と邪推してしまいます。
ジブリばかり、というか宮崎駿ばかりで恐縮ですが『となりのトトロ』の庭はどうだったでしょうか。はっきりとは覚えていませんが、いかにも男手でのびのび自然に育てています、といった家庭の様が見えてくる庭だったように思います。
アリエッティの庭はただの綺麗な庭です。屋敷の中の状況を窺い知ることもできなければ、翔の心模様を表しているのでもない。暗い画面ばかりだから、庭は明るくしとこうかぐらいのことしか伝わってこない。
安易ですが、あの庭の花が白系統でまとめられていたらどうだったろうか、と思うわけです。そこで翔が寝転んでいたら、まるで棺桶に横たわっているように見えたんじゃないか、そしたら死の淵に立って、大きな手術を受けるまでに生きる希望を見出したい、という翔の物語に添うし、そこに赤い服をきたアリエッティが現れたら鮮烈かな、とか。そして別れの場面の朝焼けで白い花が暁色に染まるカットかなんかがあれば、随分それらしくなって、驚きはせずとも納得は出来たと思います。

もう一つの『翔とアリエッティがさよならした後のシーン』は、日を跨がず見ている端からそれはダメなんじゃないの、と思いました。ヤカンに乗り込んでアリエッティたちが水路みたいな所を流れていく場面です。最初はいいのです。ただ水路をヤカンが流れていく画が映ったので。このまま翔と別れた後のアリエッティたちは画面に登場せず、ただ水路を流れるヤカンが映る。そうすれば、映画を見ていない者からすればただの水路を流れるヤカンのアニメ映像が、見ていた者たちには違って見える。という、これまた驚きはしないが納得は出来る終わり方でくるんだなと思ったら、まさかのアリエッティたち再登場。では何故外から中が見えないヤカンにしたのか、だったら鍋でいいじゃないか、と思ってしまいました。
なぜさよならの後、アリエッティたちが見えてはいけないのか。
洗濯バサミ小さすぎや、警戒色の赤色の服を人間から隠れて暮らすアリエッティが着ていることや、翔とアリエッティが普通に会話出来ることや、アリエッティの涙一粒がアリエッティの顔の半分くらいの大きさだとか、それら諸々全部まとめて(いくつかは監督が中途半端に宮崎駿的ディテールを取り入れた為に、どこまで狙ってやっているのかが見え辛くなっている)翔とアリエッティが別れた後にヤカンだけを水路に流していれば問題無かったと思うのです。
そもそも小人の存在自体が非現実的なわけで、そして映画で描かれている世界は小人がいる大前提の世界でも無いわけで、その画面の向こうでも此方でも非現実な小人という存在を画面上にリアルには描かないのならば、アリエッティたちはその存在を様々な理由で求めた人間たちの見た幻だと言っているようなものだと思うのです。ファンタジーの世界において非現実的な存在が全てそうだという意味ではないです。上記のような条件が揃えば、その可能性は濃厚で、他の解釈の要素が提示されない限りは幻だと思うし、ならば誰の幻か、ということを突き詰めて物語の意味を読み解いていくのは常套だと思います。
アリエッティは主人公でありながら翔との出会いの物語によって変化は大して見られません。人間も全部怖いわけじゃない、ぐらいでしょうか。そもそも種族としての問題はありますが、個人的な問題を抱えてませんし。
アリエッティに比べて翔の変化は大きいです。人生変わるぐらいの変化なんじゃないでしょうか。だからどこかで、この映画の世界は翔の心の世界であり、アリエッティは翔の求めた幻の存在だと匂わせてくるんだろうな、と思っていたので水路をヤカンが流れだした時は、なるほど。と思ったんですが、アリエッティが画面に再登場して何かもうどうしたいのか分からなくなりました。

単純にアリエッティを作った監督とファンタジーの解釈の仕方が違うのかもしれません。
『思い出のマーニー』は評判がいいのでいつか見ようとは思っているのですが、またアリエッティと似たような話しのような気が予告からしているので、同じようにそこはそうしちゃダメだろう、違うだろう、と思ってしまうかもしれません。
 ただこれ以上溜めておくのも寝不足になって健康に悪いので、吐き出せて良かったです。