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映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

『ゼロ・グラビティ』ネタバレ感想2

以下は、鑑賞1回目の感想。
台詞も時系列も2回目の鑑賞で、違っていることに気づいたけど、概ねいまのところの感想と近いので、記録として残す。


劇中の“私は宗教を持っていない”という台詞について。
今日はこの台詞を足掛かりに、この映画が何を描いているのかについて少し書きたい。

以下ネタバレしてます。





ゼロ・グラビティ』の中で、主人公ライアンは宗教を持っていない、と発言するが、その理由は劇中で示される、ライアンが娘をバカな死に方で亡くしたことに起因している。

主人公の宗教を持っていない発言。その後に判明する娘の死。ここで観客は、なぜ彼女が宗教を持ち得ないのかを知る、というこの一連の流れが自然に感じる違和感。
だって、宗教って生きるとか死ぬとか、そこらへんの世界を支えるものなんじゃないの。と思うわけです。
これだと、現実の不条理の前では宗教なんて到底受け入れられない、と言っているようなもん。
でも、宗教があれば大丈夫だとも言い切れないのも事実で。むしろ、そんな時に支えになんて本当になるんだろうかと疑ってしまっている。
劇中の会話の流れをみても、そこのところは共通認識として描かれている。

では、宗教とは何なのか。なんて大層なことは書けないし、ここでは書かなくても問題ない。
ゼロ・グラビティ』さえ観ていれば。
ということで、この映画の中で示される宗教とは何なのかに限定すると、答えは一つ。
イメージを共有することだ。

映画では、ある場面を除いて、主人公が見渡せる範囲の現実しか映さない。光るガンジス川が綺麗だ、と台詞では言ってもカットバックしてその映像を映したりはしない。
なぜならそれを見ているのはマットで、ライアンは見ていないから。
宗教を持たないライアンは、誰かと(マットや観客と)イメージを共有することは出来ないのだ。
でも一箇所だけ、主人公が目には見えないイメージを見た(見せた)場面がある。
一人ぼっちのソユーズの中で、酸素を絞り命を絶とうとした、あの場面だ。
死を受入れ、宇宙に浮遊していったマット(ジョージ・クルーニー)が突如現れ、乗り込んで来る。
彼は、そうであったように変わらず明るく振舞い、生きる為の最善の方法をさり気なく検討してみるように伝える。
ライアンの希望がイメージとして伝えられた、あの感動的な場面だ。
ライアンも観客も、マットがああだと知っている。そして彼なら生き残るように促すことも。
本当は生きたいと願う、ライアンが見せた希望のイメージ。
生きるための支えとなるイメージ。
そのイメージは、映画館で多くの人が共に観る事によりイメージの共有(宗教)となり、それが彼女を生かす。
ウソみたいだし、ありえないし、そんなバカなと思うけど、マットの出現に戸惑いながら安堵する、あの瞬間に観客は彼女の生存(生きること)を願っていると知るのだ。

そして多くの人(観客)とイメージを共有したライアンは、バカな死で止まったままの娘の、手を離したマットの、その先をイメージする。どこにも居ない彼らのその後。この世界の向こう側をイメージし、あちら側の彼らに語りかける。
それは幸福なイメージだと観客は想像する。
そして彼女がイメージを持ち得たと感じる。
それこそが、この映画で描かれる宗教であり、ライアンがイメージを回復する様は、そのまま信仰の回復の過程を映し出している。