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眠那影俄仁那琉

『エクソシスト』(1973年)感想・ネタバレ

この記事は、『エクソシスト/ディレクターズ・カット版』を見て書きました。

監督:ウィリアム・フリードキン




この映画には因果が描かれない。
物語は、偶然の一致で繋がっている。
超自然的な偶然の一致の数々を知るのは、登場人物の誰でもなく、鑑賞者である。


イラク北部でメリン神父が見つけた聖父子像のコインと同じものを神父のデミアンが夢に見ること。そのコインをデミアンがペンダントトップにして身につけていたこと。
録音されたリーガンの言葉が逆再生され、聞こえてくる「メリン」の言葉が、冒頭に登場した老神父の名前であることを、デミアンが気づくはずはない。
メリンと鑑賞者しか知らない彫像が、リーガンの部屋に現れた時、いったいあれをデミアンは何だと思ったのだろうか。
リーガンとデミアンが一瞬幻視する内なる邪悪な形相の顔は、台所を歩くクリスを捉えたショットの中に不意に現れる。あの邪悪な形相の顔は、リーガンとデミアンの内側に宿る何かの表象ではないのか。鑑賞者の見つめるスクリーンの中に不意に映り込む時、それはどこに宿る何の投影として現れているのか。そしてリーガン、デミアンとその幻視がつながることはまた、鑑賞者にしか知らされない。


鑑賞者だけが知る、超自然的な偶然の一致の数々は、リーガンと対峙したデミアンが知覚する偶然の一致と同じものであるかのように描かれてはいないだろうか。
デミアンは、リーガンがデミアンの母の死を知っていることや、地下鉄で出会った老人の言葉「年とった信者を助けろ、神父」をリーガンもまた言うことに意味を見出し、大司教に悪魔祓いの儀式を行う許可を求める。


この映画の偶然の一致は、一本の映画として繋げられることにより立ち現れ、そこに偶然の一致以上の説明はない。
それはまるで、「虫の知らせ」や「予知」といった、共時性シンクロニシティ)と呼ばれる超心理学的な現象として描かれている。それを体験した当事者が、因果的なつながりのない事象に意味を見出すように、この映画を観た者が、そこに意味を見出すよう意図的に映画が構築されている。
共時性現象という超心理学的構造によって、この映画は語られているのである。


C.G. ユングが提唱した共時性、別名「非因果的関連の原理」には、直線的な因果性はなく「相対的な同時性」があるとユングは主張している。時間や空間の隔たりが消失し、それらが同時に起こっていると知覚されるものだという。
イラク北部の出来事とジョージタウンの出来事がひとつの映画としてつなげられることにより、鑑賞者は「相対的な同時性」を知覚し、そこに現れる共通するモチーフに超自然的な偶然の一致を感じ取る。
これは、そもそも映画に備わる特性の一つだろう。
この特性を生かした場面は、これまで見てきた映画にも数多くあったが、『エクソシスト』は鑑賞者に神秘的知覚を覚えさせるために、約2時間ある映画全編を共時性現象として描いている。



では、『エクソシスト』という共時性現象に意味を見出すとしたら、どのような解釈が可能だろうか。


イラク北部でメリン神父は発掘調査を行っている。見つかった遺跡の中にあった、他とは製造年代の異なる聖父子像のコインは、キリスト教が古代神話に触れた痕跡や養父、または在宅する父の存在を暗示している。発掘作業の現地事務局らしき事務所に掲げられていた振子時計が止まった場面以降のメリンの行動は曖昧で、彼は身体の具合が良くないように見えるし、イラクで異国人として彷徨っているようにも見える。イラクの場面のラストは、古代神話に登場する怪物のような彫像を前に、戦う犬の獰猛さや監視する原住民の不穏さが強調されており、メリンと彫像の対峙に不吉な予感が伴う。


ジョージタウンでは大学構内で映画の撮影が行なわれている。女優のクリスと監督のバーグとの軽妙な掛け合いを楽しむ聴衆を映したショットの中央に、笑うデミアン神父の姿が見える。この後、撮影現場を背に歩き去るデミアンの姿が映り、撮影現場から徒歩で家路につくクリスが教会の前庭で神父仲間と話しをするデミアンの姿に目を止め、デミアンは物語に因縁づけられる。まるでクリスの深刻な眼差しがデミアンをこの映画に深く関わらせでもしたかのように、この後、デミアンの身に起こる出来事はマクニール母娘の出来事と平行して語られていく。


リーガンはまもなく12歳の誕生日を迎えようとしていた。母親と噂が報じられている映画監督のバーグを誕生日に呼ばないのかと訊ねるリーガンに、パパを愛しているとクリスは答える。誕生日当日、娘に電話一本寄越さない夫への不満を電話越しにぶちまけるクリスの罵詈雑言をリーガンは離れた部屋でじっと聞いている。このような場面からは母親の恋愛に娘が不安を抱いていることや、母親の本音と建前に娘が気づいていることがうかがえる。


リーガンの部屋の真上にある屋根裏部屋あたりから聞こえる原因不明の物音はいっこうに止まず、リーガンもベッドが揺れて眠れないと不満を漏らし始める。この時点でリーガンに奇行は見られないが、クリスはリーガンを病院に連れて行く。大人しく検査を受けるリーガンを捉えたショットが邪悪な形相の顔のショットに一瞬だけ切り替わる。その後、リーガンの様子にイラだったり虚ろになったりする変化が見え始める。
病院の検査を受けるまでリーガンに奇行は見られなかった。病院に連れて行ったことで彼女の奇行は始まり出している。この後、病院の検査は大掛かりになっていきリーガンの身体的苦痛は増していく。そして、そのことと比例するかのように彼女の奇行は常軌を逸していく。
リーガンの精神は後回しにされ身体的苦痛だけが増していくことと、リーガンの部屋を訪れたクリスが開いている窓を閉める描写が二度出てくることとは何か関係があるかもしれない。
二度ともリーガンは眠っている。この、眠るリーガンを無意識の状態にあると捉えると、そこで開いている窓は無意識の開放を表しているようである。そして、常に窓を閉ざすクリスの描写は、身体検査を繰り返しリーガンの精神を蔑ろにするクリスの振る舞いと重なる。検査を受けさせることも窓を閉めることも、どちらも子を心配する親の振る舞いだが、窓を閉ざすように外から隠され見えなくなっていくものが存在している。
また、これらの描写とオープニングのイラク北部の発掘場面は対応している。
地中に埋もれ外から見えないものは無意識に埋もれているものであり、それを掘り起こす行為は、それを顕現させることの暗喩のようである。


リーガンの奇行は見えない存在の顕現と関係するかのように、人々の集まる一階の部屋へ下りて行って失禁したり、同じく一階に集う人々の元にブリッジの体勢で階段を下りて行って吐血をするなど、人に見せる事が目的の一つとしてあるように思われる。
そして、殆どの奇行は死や性といった現代のタブーに抵触している。夢遊病のような状態で、予言を思わせる「お前は宇宙で死ぬ」といった発言をすることや、デミアンの苦悩の暴露、メリン神父が見た彫像を部屋に出現させることなどから、リーガンの奇行には彼女自身の苦悩の表出というよりも、接触した他者の苦悩や不安の顕現が見て取れる。謂わばシャーマニスティックな行為としてリーガンの奇行は描かれている。


デミアンはメリンにリーガンの状態を説明しようと「リーガンに憑いた霊の事をご説明します。わたしの観察では3つです」と話し始めるが、メリンは「1つだ」と返し、デミアンの言葉は遮られる。デミアン精神科医の観点から考え得る思春期の少女に見られる一般的な症状や、リーガンの置かれた環境の不安定さからくる症状、もしくは神父として悪魔的なものの存在について言及しようとしていたのかもしれない。だがこの場合、メリンの言うように原因は「1つ」である。
それはメリンがイランで発掘し、対峙したものと同じ、無意識下にある混沌である。
この無意識下の混沌と対応するのが神話的彫像であることから、ここで扱われている無意識には、ユングの提唱した「集合的無意識」が含まれていると考えられる。それはフロイトの提唱した「個人的無意識」のより下層に存在するとされ、個人的な心の領域を超えて、人類とその歴史に対応する数々の神話研究から導かれた元型により構成された「人類史的無意識」といえるものである。
リーガンはそのような、自己のものとも他者のものともいつのものとも区別のつかない無意識下の混沌の中で憑依的な振る舞いをしている。

張込みをするキンダーマン警部がベッドに縛りつけられているはずのリーガンの動く影を見たり、デミアンに母の姿を映し出して見せたりするあの不思議な窓は、意識と無意識の境界面を表している。眠るリーガンの部屋の窓が開いていることは自身の無意識の開放であり、他者の意識の傍受でもあるのだろう。
だとすると、この場合においてメリンとデミアンが行う悪魔祓いの儀式とは、混沌の秩序化に他ならない。それは古くからキリスト教宣教師が行ってきたような、未開地への布教活動に似たものなのかもしれない。
混沌の秩序化とは野性の理性化でもある。映画冒頭で神話的彫像と対峙したメリンは、謂わば秩序と理性の象徴なわけだが、彼が悪魔祓いの儀式という秩序化の半ばで死亡したことにより状況は混沌を極める。
理性を失い激昂しリーガンに掴みかかるデミアンと、それに抵抗するリーガンの揉み合いは、「合体なのだ」「リーガンと?」「お前もさ」という、以前の二人の会話の状況そのものになっている。二人は無意識下の混沌の中で縺れ合っている。
度々登場する聖父子像のコインはリーガンの苦悩に対応するモチーフでありながら、デミアンが身につけている。そしてデミアンの苦悩をリーガンが顕現してみせるといった鏡像的な関係がうかがえることから、二人を一枚のコインの表と裏と捉えることができるだろう。聖父子像のコインの本当の裏側はデミアンの苦悩に対応する聖母子像ではないのか。
デミアンの夢の中で聖父子像のコインは落下していく。そして走る野良犬をブリッジに、コインと振子時計の振子が繋がれている。ペンダントのモチーフはリーガンとデミアンの苦悩を、ペンダントの落下は無意識への降下を、ペンダント用のチェーンのついたコインと振子時計の振子の形状の相似から、振子の左右は秩序と混沌を表している。
イラク場面での振子時計の停止は、左右に振れていた秩序と混沌のバランスの崩壊であり、共時的時間(時間の隔たりの消失)の象徴として描かれている。

リーガンはデミアンのペンダントを引きちぎり、デミアンは「俺に乗り移れ」と叫ぶ。その叫びの後、デミアンの相貌が邪悪に変化し、彼は再びリーガンに襲い掛かろうとする。その衝動を押さえ込むかのようにデミアンが身体を強張らせると、彼の相貌が元に戻る。その瞬間、目の前の窓ガラスに浮かび上がった母親の姿を見て、デミアンは窓ガラスを突き破って飛び出し、そのまま家の脇道の先にある階段下へと転げ落ちる。
リーガンの手によって聖父子像のペンダントが取られ、夜の窓ガラスという鏡にデミアンは母の姿を見る。この時、それぞれの苦悩を自身の手の内や姿として獲得し、リーガンとデミアンの間にあった混沌が秩序化し始めている。
一瞬理性を取り戻したデミアンは自身の無意識の顕現という、混沌がもたらす恐怖への抵抗であるリーガンへの暴力を思い止まる。そして鏡(夜の窓ガラス)が映し出した混沌を引き受けるかのように、鏡の向こうの無意識へ飛び込んでいく。
このデミアンの行動が無意識の混沌空間だったリーガンの部屋に秩序をもたらす。リーガンの手により聖父子像のモチーフを獲得したことも大きな要因だが、コインの表裏のような一対の関係にあるデミアンの理性による行動が、無意識と意識の境界面(窓)の反転化をもたらしたことにより無意識状態にあったリーガンの部屋は秩序化され、彼女も自身の意識を取り戻す。
混沌の恐怖の中で死を迎えようとしていたデミアンにダイアー神父が駆け寄り告解を授ける。事の顛末を知らないはずのデミアンの友人は、デミアンを混沌の恐怖の中から救おうと、死の間際の友人に儀礼という秩序化を施す。

マクニール母娘の引越しを見送るダイアー神父の手に聖父子像のペンダントが渡される。ダイアー神父はそのペンダントの裏に隠された聖母子像に思い至りデミアンを偲ぶ。そして取り戻した秩序をそっとしておくかのように、クリスの手にペンダントを返す。脇道の先の階段下を見つめるダイアー神父の横顔の奥に、板によって完全に閉ざされたリーガンのかつての部屋の窓が見えている。





ユングに関する超心理学については、こちらの研究報告を参考にしました。
共時性の意味論」(2003年 田中彰吾)
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~metapsi/data/tanaka1.pdf



懐かしがって久々に観てみたら、観ていなかった事に気づきました。
どうも有名な場面や音楽をテレビかなんかで知って、観た気になっていただけのようです。
犬神家の一族』とかも、実は見てない気がしています。

『回路』(2001年)枠と鏡のシステムと視線の行く先

監督:黒沢清



「ある日それは何気なく、こんなふうに始まったのです」

映画冒頭のミチ(麻生久美子)のモノローグ。「こんなふうに」とは、彼女の同僚田口(水橋研二)の自殺を指している。田口の家の中に、黒沢監督映画に頻出する半透明のビニールの間仕切りが確認できる。

今回見直して気になったのは、田口の家のPC机の下や、川島(加藤晴彦)の家のラグやランプシェード、ミチの家の毛布、「幽霊にあいたいですか」という文字の出るサイトに登場する黒ビニール袋を頭にかぶった男の部屋、ミチが勤める会社「サニープラント販売」の倉庫、春江(小雪)と吉崎(武田真治)の研究室、春江のマンションの廊下と部屋など、かなりの場面の小道具や床が格子模様になっていることだった。


『回路』には、格子模様・市松模様・チェス盤のような模様が頻出する。


その他では、フロッピーディスクに入っていた田口の写真の中に映る消灯したPCモニターに、田口の後ろ姿が合わせ鏡のように映り込んでいることや、黒ビニール袋を頭にかぶった男の部屋の壁に書かれた鏡文字の「助けて」。図書館で出口が分からなくなる川島の描写と、図書館の本棚やデスクライトの奥行を持たせた無限回廊のような並びのショット。春江の部屋の布で覆われた鏡台などに見られる、隠された鏡の存在を仄めかすいくつかの描写も気になった。


そこでまず思いついたのが、格子模様に映画の場面空間を落とし込んで、その空間のどこかに見えない(映っていない)鏡を設置してみたら、『回路』に数ある不可解なショットのどれかを説明できるのではないか、ということだった。
結果としては、いくつか上手くいったので紹介しておく。
まずは、「幽霊にあいたいですか」という文字の出るサイトに登場する、黒ビニール袋を頭にかぶった男の映像から。
男の背面の壁に書かれた「助けて」という鏡文字も妙だが、他にも、この男は映像の中でおかしな動きを見せる。それは川島がこの映像を見る場面で確認できる。PCモニター越しにこちらへ迫ってくる男は、やがてモニターの右側へフレームアウトする。その直後、男はモニターの左側からフレームインするのだ。黒いビニール袋をかぶる男が、この映像内に二人いればできないことはない。編集でも可能だろう。
ただそのような仕掛けがあるのだとすると、鏡文字はまったくの別現象として考えなくてはならなくなる。男のこのおかしな動きと鏡文字には何か関係があるはず、全てが説明できるカラクリがあるはずだと、あれこれ検索してみたら、「ペッパーズ・ゴースト」がヒットした。
wikiの説明も画像もとても分かりやすいので、簡単なカラクリをまずは確認して欲しい。
ペッパーズ・ゴースト - Wikipedia
照明によって空間に明暗を作り出し、板ガラスにハーフミラー効果を生じさせる事で可能になる視覚トリックである。


「ペッパーズ・ゴースト」にあてはめた黒ビニール袋をかぶった男の映像図

この装置を用いれば、壁の鏡文字と男のおかしな動きの説明がまとめてつく。


その他では、フロッピーディスクに収められていた田口の写真も説明できるだろう。
その写真を見た順子(有坂来瞳)は、思わず「どうなってんのこれ」と呟く。
PC机の前に立つ田口の右下の消灯したモニターに、おなじくPC机の前に立つ田口の姿が映っている。消灯したモニターが鏡のように外界を映し込むのは見慣れた現象だが、この写真のような映り方をするには、この写真を写したと思われるカメラとほぼ同位置に大きな鏡が無くてはならない。ちょうど位置的には、半透明のビニールの間仕切りがあったあたりだろう。そして、モニターに映り込む映像に、撮影者や撮影機器の映り込みは確認できない。

だとすると、例えばあの半透明のビニールの間仕切りがハーフミラー(マジックミラー)ならどうだろうか、と思う。あの半透明のビニールがハーフミラーで、田口のいる側が鏡面なら、あの写真を撮った者(もしくは撮影機器)は田口のいる空間よりずっと暗い反対側にいて(あって)、ガラス面越しに内側(田口側)を撮っている。そもそもそんな大きなハーフミラーがあの部屋の中にあると想定するのはおかしいのだが、そのように考えないと説明がつかない写真であることは確かだ。


合わせ鏡の略図(田口の部屋)



鏡というよりはハーフミラー、またはガラスによるハーフミラー効果が、『回路』に数ある不可解なショットの裏には隠されている。
「こんな感じでそれは世界中に広まった」という吉崎の台詞があるが、その時、画面に映っているのは崩れた壁の破片にくっついた何のケーブルもつながっていないLANコンセントだ。田口の家を訪れた矢部は、何かはわからないが何かを探していて、その過程でつながっていないLANケーブルを発見する。PCモニターに映る自分自身を見た春江が、それを映す何かに近づいていく場面を見ても気づいたと思うが、そこには何もない。ただ虚空があるだけだった。
これらの描写から考えられるのは、そもそもインターネットは、つながっていないかもしれないということだ。或いは、物理的にインターネットがつながっているかいないかは、この映画の中に見られる様々な不可思議な現象とは関係がないのかもしれない。
そうなると、モニターに映る映像はどうやって見えているのだろうか。
黒ビニール袋を頭にかぶった男の「ペッパーズ・ゴースト」図や、合わせ鏡の略図(田口の部屋)を眺めていて思うが、四角い枠とガラスと光の明暗があれば、どうも『回路』の世界のモニターは映像を映し出すようだ。
インターネットといって、彼らが何をしているかというと、何かを見ているのである。
モニターの枠は眼差しを媒介し、モニター画面のハーフミラー効果によって生じる眼差しの方向性がインターネットでいうところの回線なのかもしれない。いうなれば眼差す装置のようなものとして、この映画ではインターネットが扱われている。このことは、登場人物が見る映像に音がついていないことからも伺えるだろう。あの箱(モニター)は、眼差しを媒介する光学器械なのかもしれない。


四角い枠とガラスと光の明暗によって、不可解な画像や映像が映し出されるわけだが、物語が進行すると、その影響はモニターの外にまで及んでいくように思われる。ただその時注意したいのが、ハーフミラー効果を引き起こす光の明暗が、場面の明暗と単純に合致しないということである。
なぜなら、目に見える明暗がひっくり返ってしまったかのような場面があるからだ。
それは、様子のおかしくなった順子を家で休ませ、ミチがコンビニに買い物に行く場面で確認できる。ハーフミラー(マジックミラー)で検索すると、身近なハーフミラーの使用例としてよく紹介されるのがコンビニの店内とバックヤードを隔てる扉の窓だ。通常、ハーフミラー越しに暗いバックヤードから明るい店内を見ると、窓はガラスのようになって店内の様子が薄暗く確認できるのだが、この場面では、カウンターの奥に不自然なほど大きな枠付きの窓があり、そこに明るい店内から見えるはずのないバックヤードの中に佇む店員の姿が薄暗く見えている。あれは誇張されたハーフミラーであり、明暗の入れ替わりを表す場面だろう。いよいよ街は暗くなり、今まで見えなかったはずの向こう側が見えてしまう。見えなかったものが見え始め、見る者と見られる者の関係の転倒が身近に(コンビニ)迫っていることが決定的になった場面である。
四角い枠とガラスと光の明暗があれば、どうも『回路』の世界のモニターは映像を映し出すようだとつい先ほど書いたが、四角い枠とガラスと光の明暗は、どこにあっても方向づけられた視線の媒体として機能するようだ。


なぜ、このような事態が引き起こされたのだろうか。
あくまで仮定としながら、吉崎が語るそもそもの事の起こり。
その語りの場面には、作業員(哀川翔)が登場する。作業員は、「何かテープないですか」と、同僚が持っていたテープを借りて部屋の窓やドアを塞ぎ、「あかずの間」を作っている。窓やドアをテープで塞がれて真っ暗になったはずの「あかずの間」に、なぜか光が射し、幽霊のようなものが現れる。その後「あかずの間」は取り壊されてしまう。
そして唐突に、それまでこの場面のどこにも出てきていない、崩れた壁の破片にくっついた何のケーブルもつながっていないLANコンセントが映り、そこに吉崎の台詞、「こんな感じでそれは世界中に広まった」が重なる。
これは、いつかわからないどこかで起こったことなのだろうか。回想のような、イメージのような抽象的な場面は、漠然としていて正直よく分からないわけだが、一番分からないのは、作業員が塞ぎきった「あかずの間」に光が射すことである。あの光は自然現象というより、ほとんど形而上的な光のように描かれている。
ただ、吉崎が語るそもそもの事の起こりが、あのように漠然としていて、形而上的な光りが射す訳については大体見当がついている。この場面は、実際にあったことであり、そういうものだと今日に伝えられているものを描写しているのだ。
この、実際にあったそういうものとは、ほとんど自然現象のような、光学器械の起源とされる「カメラ・オブスクラ」(ラテン語で「暗い部屋」の意味)である。それは、「壁や窓の小孔(ピンホール)を通して、外部の像が反対側の白い壁や幕に上下逆に映し出される仕掛け」(中川邦明著『映像の起源』1997 美術出版社)であり、その現象を初めて捉えたのは、哲学者のアリストテレス(BC384?322)だとこの本には書かれている。
「眼差しを媒介する光学器械」のそもそもの始まりを調べると、吉崎でなくとも大概の人がカメラ・オブスクラに行き着くだろう。「真っ暗になったはずの「あかずの間」に、なぜか光が射し、幽霊のようなものが現れる」現象は、人間がこの現象を発見する以前から、いつからか始まっていたことであり、気づいたらそうなっていたとしかいいようがない。だから、理由なく暗闇は作られ、なぜかわからないけどそこに光りが射し、幽霊のような像が現れる。そしてこの現象は、いつの時代のどこにでも遍在する、ほとんど自然現象である。だから、いつのどこかもわからない漠然とした回想のような、イメージのような描写で、それは描かれる他ない。
そしてこの「暗い部屋」が、私には格子模様の黒い四角に思えて仕方がない。
格子模様の黒い四角であるカメラ・オブスクラという「暗い部屋」があるのなら、白い四角に相当する「明るい部屋」と呼ばれる光学器械があったりしないのだろうかと、ふと思って調べてみたら、あった。
カメラ・ルシダと呼ばれる光学器械だ。
カメラ・ルシダ - Wikipedia
カメラ・オブスクラと対称的な関係を持つかのような名前だが、カメラ・ルシダは手元に像を投影し、かなり正確なトレースを可能にする絵画用の補助器具であり、共通するのは像を投影する機能だけである。目の前のものを手元に投影するために、この器械にはマジックミラー(ハーフミラー)や鏡やプリズムなどが組み込まれていて、サイズは違うが仕組みとしては、「ペッパーズ・ゴースト」に近い。


そもそもの事の起こりの原因は、「あかずの間」を作ることでも、その中に幽霊のような像が現れることでもない。この原初の「あかずの間」(カメラ・オブスクラ「暗い部屋」)が壊されたことがきっかけとなり、『回路』に映し出される夥しい数の四角い枠とガラス(が持つ光の明暗によるハーフミラー効果)がカメラ・ルシダの機能を果たし、ミチの家で見たニュースのように、ガラスのボトルに入れられたメッセージが水を媒介し、十年という時間と空間を経て遠くに届くように、「眼差しを媒介する光学器械」(インターネット)は動作し、「それ」らは外部に現れ出す。
原初の「あかずの間」が壊され、回路は開かれた。通常、回路とは閉じていることで作動するものだが、この回路は開くことによって作動する。


映画終盤、川島は人家の軒先に置かれたTVを見ている。TVは人物のスナップ写真を映していて、写真とともに都道府県名と名前が読み上げられている。写真が切り替わるとまた、新たな都道府県名と名前が読み上げられる。TVはそれを繰り返している。写真は複数人を写したものでも一人を写したものでも、そこに映る一人の人物の顔に四角い黒縁がつけられている。そしてこの、写真に写る顔を囲む黒縁は遺影の額縁を想起させる。黒い枠で囲われた者は、なぜかもう死んでいると思う。


死はこの世界にあるものなのに、私たちは世界の中に死そのものを見つけることができない。死があるから死体があり、死があるから葬式があり、死があるから写真に写る人の顔が黒い枠で囲われているのを見てその人を死んでいると思うわけではなく、死体や葬式や写真に写る人の顔が黒い枠で囲われているのを見て、死があることが分かるのだ。
この世界に確実にある死は、そのものとして知覚されることなく、常に間接的に知覚される。そしてもし、死者が存在する世界が死の向こうにあるとしたら、その世界は死を経た世界であり、死は過去に起こった事象として死者に記憶されているだろう。
だから、「あかずの間」に現れた「死は永遠の孤独、だった」と、過去形で死を語る者は、過去形で死を語るが故に死者なのだ。
死者の世界にもはや死は存在しないことから、生者が間接的に知覚する死という境界は、死者にとっては知覚できない透明な境界だろう。だからもし死者がいるとするならば、それはこの世界で、死の記憶を持ち、生者が間接的にしか知覚することのできない死という境界の内に存在しているということになる。あの世という別世界ではなく、この世の中の境界の中に存在しているのである。(TVの枠の中の黒枠や、オープニングタイトルの「回路」の文字の回の字の内枠が赤くなっていたことを思い出して欲しい)
この死の境界の、片方からは間接的に知覚され、片方からは知覚されないという特性は、ハーフミラーの特性に似ている。水面でもいい。基本的には、ハーフミラーを挟んだあちらとこちらの明暗が変わることによって、鏡になったり、ガラスになって向こう側が見えたりするものだが、死の境界は、生者が間接的にしか死を知覚することができないことから、生者が明るい側であることが光の明暗に関わらず固定されている。そして死者は暗いところで、知覚できない境界(ガラス)越しに、こちらを見ているのである。
この死者の佇まいは、まるでカメラ・オブスクラの内部で外部の像を見る観察者の佇まいのようだ。もし、死者が存在するならば、知覚されることなく外部を見つめる観察者として、それは存在するのだろう。
この死者を囲むハーフミラーという回路が開かれることで、それまで間接的に知覚されていた「死」が「死者」にとってかわる。死の内部に光が当たりガラス面が鏡面になることで、死ではなく、死者が間接的に知覚されるようになっていくのだ。
あの動く黒い人影がそうだ。
動く黒い人影のようなものは、一見すると、スクリーンや壁などに照射される光を遮る人の影のようだが、よく見ると肌の色が暗く見えているので影ではない。例えば、夜走る電車内から見る窓ガラスや、外から見た車の窓ガラスといった反射率の低いガラスに映る、黒っぽい鏡像が見た目としては近いものに思える。ガラスの奥が暗い時に起こるハーフミラー効果によって、ガラス面に映し出される黒い人の像の、像だけが窓から抜き出てきて歩き回っているようである。
世界にあった死の鏡は、今や死者を映し出す鏡となって図書館やゲームセンターに、その像を映し出す。彼らは「暗い部屋」にいて、その鏡像は暗く影のように見えている。川島は、死者を映し出す鏡の面に迷い出口を見失い、鏡面の冷たさに震えている。ゲームセンターでは、開かれた「あかずの間」が画面の奥に映っている。すぐそこに、いたるところにあった死のように、それはすぐそこに、いたるところに出現するのである。



そして、この死者を映し出す鏡に取り囲まれたのが春江だ。
「幽霊にあいたいですか」サイトを見ていた春江は、黒ビニール袋をかぶった男のピストル自殺を目撃する。モニターは、男のピストル自殺後に一旦消灯し、再び点灯すると、背後から春江を撮っていると思われる映像を映し出す。春江は恐る恐る背後の部屋へ入りライトを点ける。確かにこの部屋から撮っていると思われる映像がなおもモニターには映り続けているが、部屋の中に撮影機器や撮影者の姿はない。ただ、春江だけは何かを見つめていて、恍惚の表情で虚空へ向かって進んで行く。そして彼女は、「私、ひとりじゃない」と呟き、誰かを抱擁するような身振りをみせる。
まず、モニターと背後からの撮影に挟まれた春江は、合わせ鏡の中に立っていた田口とよく似た状況にある。また、春江の「私、ひとりじゃない」という呟きにより、そこにあるのは撮影機器ではなく、誰かであり、その誰かの視線が映像となってモニターに映っていることが分かる。
気になるのは、春江を見つめるこの誰かの視線だと思われるショットに入るノイズである。このノイズが『回路』に登場するのは、この場面が始めてではない。映画冒頭、ミチが田口の家へ向かう場面に挿入される、田口の家のPC机を捉えたショットにも同様のノイズが入っている。これを春江の場面と同質のものとするなら、冒頭のノイズ入りのショットも誰かの視線だろう。
このような、カメラと誰かの視線が一致したショットは、視点ショットやPOV、主観ショットと呼ばれる手法で、『回路』でも他にミチの視点ショットが何度か出てくるが、そこにノイズは入っていない。また、「あかずの間」に入った矢部や川島が、その中に現れた死者と見つめ合う時にショットが切り返されて死者の視点ショットになるが、そこにもノイズが入っていないことから、春江が見た誰かは「あかずの間」に現れた死者でもないだろう。これらのことと、合わせ鏡の中にいる春江の状況をふまえると、ノイズの入る視点ショットは、鏡に映った鏡像の視点ショットということになる。見えないハーフミラーの、見えない鏡面に映る、見えない鏡像の視点ショットというわけである。
春江はそこに自身の鏡像を見ている。そして、その鏡像も春江を見ている。そうなると、この場面の春江の呟き「私、ひとりじゃない」は、言葉通り彼女がもう一人いることを示唆している。
春江を取り囲んだ死者を映し出す鏡とは、彼女が映るモニターのガラス面であり鏡面に他ならない。ガラス面には春江に見つめられる春江が映り、鏡面には春江を見つめる春江が映し出されている。この奇妙に空間が圧縮した合わせ鏡の中に彼女は閉じ込められたのだ。
「幽霊は人を殺さない。そしたらただ幽霊が増えるだけ、そうでしょう?彼らは逆に人を永遠に生かそうとする。ひっそりと孤独の中に閉じ込めて」


水面に映し出された自身の姿に惹かれたナルキッソスのように、春江は鏡に映る自身の姿に腕を伸ばす。
「かの英国女王エリザベス一世(一五三三-一六〇三)の最晩年のことだが、鏡をめぐって奇妙に矛盾する噂が二つ伝わっている。一つはこの老女王が、廊下や広間の、彼女の目に映る鏡という鏡をとりはずさせたり、あるいは覆いをさせたということ。もう一つは、彼女の私室の奥の浴室を、四面の壁と天井とそして床までも、鏡で張らせたということである。」(川崎寿彦著『鏡の中のマニエリスム』1978 研究者出版)
著者の川崎はその理由をいくつか推測しているが、その中でも、「なにしろ彼女が造らせたのは、一面ではなく全面が鏡の浴室だったという。だとすればそれらの鏡は、老いたる女王の肉体を中心に、無限級数的な鏡像を交錯させたに違いない。そのような手段で達成されるのは、一つには、自己の模造の無限の増殖による自己同一性の極限的主張であったろうが、もう一つには、その無限の拡散による自己消尽であったのであるまいか。」という推察は、この場面と照らし合わせるととても興味深い。
「俺がいるよ」と言って寄り添った川島という他人を拒絶した春江にとって、孤独を埋める存在とは、もうひとりの自分なのだろうか。孤独を埋めるために自己増殖を繰り返し、やがて彼女は自己消尽の結果として、ナルキッソスのように自殺してしまったのだろうか。
鏡像の中の自分と見つめ合うことは、「視線を媒介する光学器械」により発生する視線の行き止まりを意味しているかのようだ。この先どこへも視線は向かわないだろう。


上記の春江の場面で見られたようなノイズの入る視点ショットは、この後、川島が「あかずの間」に入る場面にも出てくる。死者と見つめ合う川島の視点にノイズが入っている。
だとすると、「あかずの間」に入り、死者に見つめられた者は鏡像になるのだろうか。ちなみに、矢部が「あかずの間」に入り、死者と見つめ合う時の矢部の視点ショットにこのノイズは入っていない。
ただ「あかずの間」に入った者がどうなるかというと、矢部も順子も川島も死者に見つめられているのである。目と目が合ったと思われるその時、それまでぼんやりとしていた死者の姿が、実態であるといわんばかりにクリアに現れる。そして川島が死者を映す鏡の鏡面に迷い込んだ時のように、矢部も順子も寒さを訴えている。
微妙に三者の整合性がとれないが、三者に見られる共通点から、とりあえず彼らは死者の鏡像になったとしよう。それは、死の境界に映る像という実態を無くした存在であり、死んだ者でも生きている者でもなく、死んでいる者となる。まさに死の中(生者と死者を隔てる死の境界の中)に存在し、死に続けている者である。
(2021.6.14追記 記事をUPしてすぐ、矢部・順子・川島が死者と見つめあった時のノイズ表現の違いについて解明していたのだが、ものぐさなため追記が遅れた。
このノイズは鏡に映った者(鏡像)の視点ショットの際に画面に干渉するものとして表れるのだが、川島が死者と見つめあう際に死者の視点ショットのようなショットにも表れている。これは、死者の網膜に映った川島自身(の鏡像)の視点ショットであり、ここで川島は春江と同じく鏡(網膜)に映る自分自身と見つめあっているのである。川島と向き合った直後の死者の瞳が、驚くほど鮮明に映し出されるのは網膜とはまるで鏡のようなものだということを示している。直接の描写はないが、矢部と順子も死者と見つめあっていることから、おそらく同じ状況に陥ったと思われる。)
この永遠の死が、やがて人の形をした黒いシミとなっていく様は、広島への原爆投下により現れた「死の人影」を想い起こさせる。死という停止により、順子が言うように彼らは、「ずっとこのまんま」になる。原爆の一瞬の光は引き延ばされ、永遠の日々の光となり、「ずっとこのまんま」な彼らを残して降り注ぎ、やがて彼らは人の形をした黒いシミになっていく。
(広島平和メディアセンターのHP(http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=25762)によると、「死の人影」の影の部分は、付着物によって黒くなっていることが奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターの調査で分かったそうだ。また同HPの「死の人影」解説ページでは、1967年に強化ガラスで薄くなる影をカバーしたとの保存の記録も読むことができる。これらのことから、人の形をした黒いシミの多様な描写の一端がうかがえる。)
人の形をした黒いシミとなった彼らは、死んでいない。死に続けている。死体となったはずの、田口や飛び降り自殺をした女や春江の黒いシミは、その死の場所に取り残されている。黒いシミから発せられる「助けて」という声は、まだ死んではおらず、死の境界で死に続けている者の声なのである。


黒い四角と白い四角の格子模様は、閉ざされた死の境界が開くことで、回路の内側という、本来ならば虚ろな、便宜的に現れたただの空間、死という境界によって生じたそのような空間を、どこまでも媒介するシステムを表している。
回路が開かれ作動した「視線を媒介する光学器械」(インターネット)により構築されたシステムは、やがて見る者を見られる者へと変えていく。それは死の境界、永遠の孤独に取り囲まれることに他ならない。



『回路』を見直して気づいたことは他にもある。先にも少し触れたが、この映画にはミチの視点ショットが多い。彼女は見る者として、最後まで先を見つめ続けている。私たちは彼女とともに赤いテープを扉に貼る女や、目の前で起きる飛び降り自殺、燃え上がり落ちてくる飛行機を目撃し、彼女の視線に視線を重ね、先へ先へと進んで行く。
春江の家の窓から廃工場を見つめ、そこに春江がいるかもしれないと言うミチの視線に従って進む物語に、私たちは連れられて行く。

最後まで見る者だったミチのモノローグ「今、最後の友達と一緒にいます。私は幸せでした」の、最後の友達とは、ずっと彼女の視線とともにあった私たちのことだろう。同じものをともに見たことが、自己消尽を免れた唯一の手段だったと私たちに伝えているのだろう。だからあのモノローグは、彼女からの伝言なのだと私は思っている。


そして私たちの視点は、遥か上空から彼女を乗せた船を見下ろす。そこに広がるのは画面いっぱいの水面であり鏡面でもある。やがて水面が遠ざかるように、画面の内側に黒い枠が現れ、水面が反射する光はみるみる収斂していき、プツリと消失する。そして訪れる一瞬の闇の中で、私たちは「あかずの間」の中にいたことに気づくだろう。私たちは外へ出るために回路を開く。同じものをともに見るために。




『回路』の劇伴が好きです。もの悲しいというかうら寂しいというか、いいですよね。
私の出来る限りで細かく見たつもりですが、黒沢監督の映画は、細かく見ても見なくても印象は変わらないです。伝達能力が高いんでしょうね。表現力なんですかね。よく分からないけど何か分かるという。

『回路』を見直してすぐに、水田恭平「暗い部屋をさまようファントム」(2006)http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/00517642.pdfを読んで、『回路』の映画評はもうこれでいいじゃないか、と思ったのですが、その間を埋めるものを書かないといけないなと思って書きました。そもそも『回路』について書かれたものではないですし。
竹森修「『ジーキル博士とハイド氏』解釈」(1975)https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/135083/1/ebk00033_056.pdfも読みました。途中呪文みたいになっていく難解な論文でしたが、カンで読みました。この後『ドッペルゲンガー』を書くことになったら引き続きお世話になりそうな論文です。文中でも触れましたが、川崎寿彦著『鏡の中のマニエリスム』(1978 研究者出版)にもお世話になりました。映画の中の鏡の多用に混乱を極めていたのですが、この本を読んで、混乱するのも致し方ないという諦念の境地に達することができました。面白い本です。
何というか、今回書いていてつくづく思ったのですが、第一線の映画監督の教養についていくのは本当に大変です。

『A.I.』(2001年)について

監督:スティーヴン・スピルバーグ


3千年紀の始まりに公開された、母の愛を求める少年型ロボットの冒険物語について、私はまだ何も理解していない。
この映画は、「ピノキオ」がストーリーの下敷きになっていると言われているが、それがカルロ・コッローディ著『ピノッキオの冒険』(1883年)なのか、ディズニー映画『ピノキオ』(1940年)なのかも分からない。なんとなくピノキオっぽい話だとしても、映画冒頭に登場する童話が『ロビンフッドの冒険』なのは、どういうわけなのだろうか。


この映画の何が分かって何が分からないのかについて、一度整理をしておきたいとずっと思っていた。書いたら考えるし、それで少しは整理できると思う。



まず、この映画の冒頭と終盤と最後に、なぜスペシャリスト(2000年後に出てくる半透明の宇宙人みたいな進化したロボット)のナレーションが入っているのかについて書いておく。
映画終盤の2000年後の未来で、スペシャリストが氷の地表を掘り進めてデイビッドを発掘し、デイビッドが保持する記憶を人類の遺産として収集していることから、このナレーションの意味は、発掘映像を元にスペシャリストがディレクションし、人類に関する映像資料として製作されたものであると考えることが出来るだろう。
この映画は、スペシャリストがディレクションした2000年前の過去の物語なのである。
この物語は、スペシャリストのいる時代から語られているので、人間が登場する時代の年代は不明である。発掘されたデイビッドを起点に2000年という時間の経過だけが明確な、考古学的時間表現が成されている。
昔々、Once upon a timeに相当する 2000年前の昔、温暖化が進み、地表が減少し、人口調整が成され、資源を必要としないロボットが活躍した時代の物語が語られている。


人の夢想から生まれた虚構はかつて人々に消費され、人々が消え去った遥か未来にただ一体が残される。その虚構が人類の記憶を保持する資料的価値を持った存在となる。しかし、その虚構は価値ある存在などではなく、ただ一人に愛されることを望む。

この、「人の夢想から生まれた虚構であり記録媒体」として描かれるデイビッドが、私には映画に思えて仕様が無い。
何と言っても、デイビッドの最初の記憶が企業ロゴというのが映画らしい。映画本編前には、必ず企業ロゴが入る。
他にもデイビッドは、映画のように需要を見込んで供給されようとしている。そして各劇場に配給されるフィルムのように、大量の複製が製造される。また、ほうれん草を食べて溶けるデイビッドの顔は、映画フィルムが映写機のランプ熱で溶ける様に良く似ている。調整された湿温度で数百年の保存が可能である映画フィルムなら、冷凍状態で2000年ぐらいの保存が可能なのかもしれない。

このようなデイビッドの特性を見ると、彼は映画というより、映画フィルムとして描かれているように思える。だとすると、固有の形態をそれぞれ持つロボットは、目視で識別する事が出来る映画フィルムという謂わばアナログ記録媒体で、同じ形態で記憶を共有するスペシャリストは、デジタル記録媒体なのかもしれない。
彼らが本質的には同じ、映画を記録する媒体であることを示すかのように、デイビッド登場場面における、縦長のスクリーンのような四角い扉の逆光の中を進むデイビッドのシルエットは、スペシャリストの形態と酷似している。



デイビッドや、その他のロボットたちが映画フィルムだと思われる描写はいたるところにある。資料でも廃棄物でもない映画フィルムは、ジゴロ・ジョーの左胸にあるようなシリアルナンバーで管理され、各劇場に送られ上映(使用)される。
管理者不明のロボット(ジゴロ・ジョー)や、一本の映画フィルムとして繋がっていない不完全なもの(継ぎ接ぎのロボットや欠損したロボット)、古すぎて需要の無いもの(旧型のロボット)などは廃棄される運命にある。
そうしたロボットたちは森に潜んでいる。森の空き地に廃棄物が投棄されると、それらは一斉に集まり、捨てられた部品を漁り、欠損したり動かなくなった部品に代わり使えるものがないか物色する。そして、ロボットの破壊を見世物にするジャンク・フェアの開催者の捕獲から身を潜めている。
この、ジャンク・フェアの主催者であるジョンソン=ジョンソン卿は、光る月の気球に乗り、気球に設置されたモニターを見ながら、メガホンでロボット捕獲の指示を出す。地上でロボットを追い掛けるバイクは赤色と青色に光り、ロボットを捕獲する磁石は緑色に光っている。さながらジョンソン=ジョンソン卿は、虚構を映し出す映画フィルムに赤・青・緑(光の三原色)の光を当て、それらを観客に見せつける映画監督のようである。

人が物のように死ぬ映画や、面白おかしく頭や腕が吹き飛んだり、突飛な死に方を見世物にしている映画はある。そこで傷つき破壊されるのは、それら虚構の存在であり、そこにある痛みや死は、見せ掛けであって本当ではない。虚構だからこそ痛みや死を面白おかしく見せることができるわけだが、ジャンク・フェアのシークエンスのラストでは、デイビッドのような、とびきり愛情のこもった、この世に2つとない特別な虚構を、虚構であるという理由で、残酷に扱うことに抵抗を示す人々の様子が描かれている。



とびきりの愛情を込めて、亡くした息子そっくりにデイビッドを製造したホビー教授もまた映画監督のようである。
息子を亡くした悲しみを、普遍的な人間の悲しみと捉え、そこに商機を見出し、デイビッドの複製を大量に製造し改良を重ねている。「ダーリン」と名付けられた少女型ロボットというバージョン違いも生み出している。このようなホビー教授の振る舞いは、ロボット製造会社の開発者というより、同じモチーフを繰り返し描く映画監督に似ている。



この映画は一見、母の愛を求める少年型ロボットの冒険物語を描きながら、個別の物としての映画フィルムの運命や可能性について描いているのだろうか。
そう考えてみると、すぐにでも上記の解釈だけでは説明出来ないショットの数々が頭に浮かぶ。
例えば、映画冒頭のシークエンスの最後で、女性型ロボットは化粧をしている。その次のショットで、ヘンリーとモニカ夫妻が車に乗って登場する。この時、モニカは車中で化粧をしている。なぜショットを跨いで、女性型ロボットとモニカが化粧で繋がれているのか。
壁面に童話の絵が描かれている施設で低温睡眠するマーティンと、童話がモチーフの遊園地で凍りつき、機能休止するデイビッドの符合は何を意味するのか。またこの時、マーティンの眠る低温睡眠室の天井は、一本の柱を中心に円形の放射線状に骨組みが張られていて、海中で凍るデイビッドの乗るヘリコプターには、これまた円形の放射線状である観覧車の骨組みが覆いかぶさっている。これらの形状は、映画フィルムのリールによく似ている。

他にもある。それらをいちいち書いていたらきりがないので、まずは、現代の医療では治せない疾患があり、未来の医療に希望を託して低温睡眠状態にあるマーティンに、モニカが「ロビンフッドの冒険」を読み聞かせる場面について考えてみたい。



マーティンが眠るカプセル内部に音声を伝える機器を、モニカは慣れた手付きでカプセルに装着する。そして折り目のついたページを開き、本を読み始める。本は「ロビンフッドの冒険」。モニカは、文中の「ロビン・フッド」と書かれた箇所を「マーティン」と読み替えている。
ロビン・フッドは、中世イングランドの伝説上の義賊、英雄視されたアウトローである。シャーウッドと呼ばれる、コモン・ロー(神の法)の埒外の森を住処にしている。中世においてアウトローとは、「市民としての死」の宣告を受けた者であり、市民に狩られる対象であった。法の埒外にいる者を狩ることは罪では無く、市民はアウトローを見つけ次第、狩ってもよいとされていたのだ。
この映画において、生まれながらに「市民としての死」の宣告を受け、神の法の埒外の森に置き去りにされ、森を彷徨い、人間に狩られるアウトローは、「ロビンフッド」に読み替えられたマーティンではなく、ロボットのデイビッドである。
スピルバーグ監督映画には、世間一般でいうところの乱暴者としてのアウトローでは無く、いつもこの、「市民としての死」の宣告を受けた、法の埒外にいるアウトローが出てくる。
宇宙人も恐竜もナチス党政権下のユダヤ人も未来の犯罪者も空港で国籍を失う者も戦渦の馬も、皆アウトローである。

スピルバーグはホビー教授のように、アウトローを繰り返し描く。手を加えながら。バージョン違いを生み出しながら。ホビー教授にとってのそれは、デイビッドである。そして、スピルバーグにとってのそれは、この映画でロビン・フッドに読み替えられた、マーティンなのではないかと思う。
どう見ても、アウトローとして描かれているのはデイビッドであるにもかかわらず、マーティンがスピルバーグの描くアウトローとはどういうことか。
モニカがマーティンに読み聞かせた、ロビン・フッドとデイビッドの符合や、低温睡眠するマーティンとデイビッドの符合から、その理由を考えてみたい。



マーティンは、不治の病に冒され、眠る子供として登場する。彼の病が治療出来るのは、いつか分からない未来においてである。モニカは、マーティンが眠る施設に到着するなり音声装置を睡眠カプセルに装着し、折り目の付いた本を広げ、おもむろに本の読み聞かせを始める。彼女の様子を見るに、もう何度も彼女はこの行為を繰り返している。
そしてマーティンは、回転するリールのような天井の下で、童話の絵が描かれた壁面に囲まれながら、童話を聞いている。
この時、マーティンはどんな夢を見ているのだろうか。
きっと彼の夢には、唯一の外部情報であると思われる、モニカが読み聞かせる童話からの影響があるだろう。
そして、病に冒された男の子は、もちろん健康になりたいだろう。
もし病気の男の子が、健康体をロボットのような完璧な身体であることだと解釈し、童話のような夢を見ていたら、それはきっと、デイビッドの冒険物語にとても近いものになるのではないだろうか。

マーティンは夢の中で、ロビンフッドになり、ピノキオの運命を辿ったのだろうか。

人間もロボットも夢の中の虚構だから、モニカと女性型ロボットは、同一のものであるかのように化粧で繋がれるのだろうか。デイビッドは、鏡やステンレスに反射した像(虚構の像)として頻繁に映し出されるが、モニカやヘンリーもまた反射した像となり、スクリーンに映し出されている。



この映画が公開された時、デイビッド役のハーレイ・ジョエル・オスメントの天才子役ぶりが話題になった。ロボット役だから、彼は瞬きをしないで演技をしている、と言われていた。
確かにデイビッドは、生理現象としての瞬きをしない。それは、ロボットだからなのだろうか。昔からある、子供向けの人形だって瞬きをするのに、人間そっくりに作られたロボットが瞬きをしないものなのだろうか。瞬きだけじゃない、デイビッドは、眠る振りさえしない。
とにかくデイビッドは、目を瞑らない。
この不自然なデイビッドの設定は、デイビッドがマーティンという眠る少年(目を閉じた少年)と対照の関係であることを示していると考えられないだろうか。


実は、デイビッドは一度だけ瞬きをする。それは、2000年後のシークエンスの途中にある。真っ白い画面に、デイビッドの二つの瞳だけが浮かび、その瞳が一度だけ瞬くのだ。
この時、マーティンは果てしなく長い眠りから目覚める。
目覚めた後のシークエンスは、映像の質感がそれまでとは変わり、少しざらついていて、色味が濃くなっている。かつての家で目覚めたデイビッド(マーティン)が、名前を呼ぶ声の方へ行くと、そこにはブルー・フェアリーがいる。ブルー・フェアリーがいるということは、この場面は、スペシャリストが作り出した仮想現実のような場所なのだろう。ブルー・フェアリーに、デイビッドは、本当の人間の子供にして欲しいと願う。復元した夢の記憶の中で、本当の人間の子供が言う、「本当の人間の子供にして欲しい」という願いに、一瞬戸惑ったようなスペシャリストの姿が差し込まれている。

スペシャリストは、眠る少年の果てしない夢を採取した。
そして、目覚めた彼の、本当の人間の子供にして欲しいという願いを聞き、マーティンがデイビッドとして生きている事を知った。
スペシャリストは、人間を復元して、過去に起こったありとあらゆる人類の記録が、宇宙時間の中に記録されていることを知り、それを採取した。しかし、復元した人間は、目覚めて眠りにつくまでの時間しかもたず、意識が薄れると、その存在は暗闇の中に消えてしまい、実験は失敗したと語る。
彼らは、マーティンが目覚めるまで、人類から夢の記憶を採取することが出来なかったのだ。
夢の記憶を持つマーティンは、スペシャリスト曰く、人類のかけがえのない記憶バンクであり、人類の優秀性を示す証なのである。

スペシャリストは、マーティンが認識している自己であるデイビッドの願いを聞き入れ、デイビッドの夢の中の母であるモニカと過ごす最後の一日を見せる。
それは、マーティンが蘇った一日なのだろう。彼は、本当は、本当の人間の子供だった。デイビッドの願いは、本当の人間の子供の願いだった。母への愛も、本当の人間の子供の愛だった。
だから、夢は虚構ではないのだ。
マーティンは、モニカとの一日を終える。暗闇に存在した少年は、暗闇の中で、母から愛の言葉を聞き、“夢の生まれる所へ”と旅立って行く。

そしてこれは、スペシャリストが語る、人類の夢にまつわる、昔々のおとぎ話なのである。



映画の記録媒体が、アナログからデジタルへ移行する時代に、スピルバーグは、アナログ記録媒体が見た夢を、デジタル記録媒体が物語る映画を撮った。
全ては、「夢の生まれる所」から始まる。それは、人の見る夢から始まる。複製されるロボットの少年は、本当の少年の夢から生まれる。そのことが、逆説的にロボットの少年を本物にする。少年の夢見る少年は、本当の少年の夢として存在している。そして、人類の素晴らしさの証として夢は映画となって存在し、それは受け継がれていくのだ。






このタイトルロゴも、改めて見てみると意味深ですね。少年のシルエットが二つあってネガポジ反転してる。

スピルバーグは、映画のデジタル記録媒体について、キューブリックと話したりしてたんですかね。

レディ・プレイヤー1』(2018年)を見て、『レディ・プレイヤー1』について書く前に、『A.I.』を書いとかなくてはいけない気がして書きました。『BFG: ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』(2016年)も、確かこんな話しでした。
ずっとロビン・フッドは、スピルバーグが描くアウトローの雛形だと思っていたので、ロビン・フッドが出てくるこの映画は大きな課題だったんですが、今書けるのは、こんなもんです。

あとテディ、あの熊、何なのでしょう。カメラ的な何かなのかなと思うんですが、ちょっと今のところ分からないです。

『ブレードランナー』あらすじ・解説

監督:リドリー・スコット

ブレードランナー2049』(2017年)が間もなく公開されます。ということで、SF映画の金字塔『ブレードランナー』を見直してみようと思います。

はじめに

この映画は、「リサーチ試写版(ワークプリント)1982年」「オリジナル劇場公開版(1982年)」「インターナショナル劇場公開版(1982年)」「ディレクターズ・カット(最終版)1992年」「ファイナル・カット(2007年)」といった、5つのバージョン違いが存在し、その全てがソフトで見られるようになっています。
また、この映画の熱狂的なファンは、それら手持ちのソフトを見直しながら、ああでもないこうでもないと語り合い、監督や出演者、スタッフの証言などから細かく設定を探り、小道具に付された形而上的、または心理学的意味づけから、果ては使用されたセットや小道具のその後の足取りまで、とにかくありとあらゆる情報を『ブレードランナー』に加え続けています。

なので、『ブレードランナー』は「カルト映画」なわけですが、今回はそこを一旦忘れて、ただの一本の映画として見直してみようと思います。
この記事は、『ブレードランナー2049』(2017年)を見る前に見直しておくなら最新版かなと思い、『ブレードランナー ファイナル・カット』(2007年)を見て書いています。

物語のあらすじは単純なんですが、あらすじの裏に隠された物語が絶対あるだろう、と思わせる意味深長な映画です。そこらへんが「カルト映画」たる所以なんだと思います。なんか絶対ある!と思って謎解きにのめり込んでしまうのでしょうね。
そして、フイルム・ノワールを思わせる、光と影のコントラストが強調された画面作り。煙や湯気やネオンや人ごみといった、アジア的なイメージが何層も重なった虚無的で退廃的な夜の街の風景。そこに降る、シュヴァルツヴァルト酸性雨。そして、ジョニーウォーカー ブラックラベル。
めちゃくちゃ気取った白黒映画に、雑多な光のレイヤーを重ねたような、黒く眩いアンビバレントな未来都市がとにかく格好良いです。またそのような世界の描き方が、デザインで統一されているというよりも、絵画的なタッチで統一されているのが、これまた格好良いです。

この映画の原作は、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年)ですが、映画のタイトルは、主人公デッカードの職業名である、ブレードランナーに変更されています。ブレードランナーという名称の元ネタについては、ネット上に散々書かれている通りだと思いますが、なぜこの名称が映画のタイトルに採用されたのでしょうか。
その答えは、映画のいたるところに映るものから推測出来ます。
この映画には、いたるところに、シーリングファンの羽根、扇風機の羽根、とにかく回っているものの羽根を意味するブレード(blade)が映っています。
主人公デッカードは、このブレード(blade)を走る者(runner)なのです。
だから、タイトルはブレードランナーなのです。
(いや、ソファーで寝たり、車を運転したりしてたけど)と思われると思うのですが、この映画は、物語の扱う主要な題材ゆえに、物語の理論とその構造を担う、舞台装置が設けられています。登場人物たちは、2019年の未来都市ロサンゼルスを行き交いながら、その舞台装置の上にも配されています。この映画の舞台は、私たちが知るところの設定と物語にそれぞれ設けられ、それらが重なっているのです。

この物語が扱う主要な題材とは、白昼夢です。
この白昼夢という題材により、「映画が何でもあり」の状態になることをリドリー監督は嫌ったのでしょう。白昼夢の理論とその構造。そのような、あるんだかないんだか分からないものが想定され、物語は語られていきます。
その白昼夢の舞台装置とは、映写機の原型に限りなく近づいたといわれる、動く画を見る回転装置「プラキシノスコープ」です。


プラキシノスコープ
フランスのエミール・レイノー(1844-1918)によって発明された。
回転ドラムの中央に鏡の円筒、その周囲に挿絵の帯がある。中央は十二枚の鏡から構成されていて、そのそれぞれが挿絵の帯に描かれた十二枚のデッサンの一つ一つを映し出す。装置が回転すると、観客は一度に一枚の挿絵だけしか見ることができない。その挿絵は観客の視線に直角に置かれた鏡によって映し出される。
参考文献 ジョルジュ・サドール著『世界映画全史1 映画の発明-諸器機の発明 1832-1895 プラトーからリュミエールへ』(1992年)


この白昼夢の装置の外周面に、デッカードがいる世界。中央の鏡面にレプリカント、ロイ達の世界があります。そして、この装置の上空では、本来のプラキシノスコープには無いブレードが回転しています。
なぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのかについては、文末のおわりにで触れます。

この装置の暗喩は、シーリングファンや扇風機としても映画の中に示されますが、一番分かりやすいのはビルの屋上のショットです。


カメラは回転するように動き、その上を飛ぶスピナーも旋回する
※スピナー(Spinner)には、“急回転するもの”の意味がある

この装置により、時間の流れが無い(固定された画)外周世界と、時間の流れがある(鏡に写る動く画)中央世界の構図が出来上がります。
そして、円環(ループ)する物語が見えてきます。

時間の流れに気づくために、外周世界からブレードを渡り中央世界へ行く。
それがブレードランナーである、主人公デッカードの物語です。

以下であらすじを確認しながら、『ブレードランナー』のショットや場面、小道具について意味するところを探り、この映画が何を描いているのかについて、最後まで書いていきます。

登場人物

警察組織

リック・デッカード レプリカントを解任する専任捜査官ブレードランナー
ガフ        デッカードの案内人、スピナー操縦士
H・ブライアント   ブレードランナーの統括者
ホールデン     ブレードランナー、リオンを取調べ中に銃殺される

レプリカント

ロイ・バッティ   リーダー、戦闘用男性形
レイチェル     タイレル社秘書、デッカードと恋人関係になる
プリス       兵隊慰安用女性形
リオン       戦闘用男性形
ゾーラ       戦闘用女性形

タイレル

エルドン・タイレル 社長、天才科学者、レプリカントの創造者
JF・セバスチャン  遺伝設計技術者、早老症を患う
ハンニバル・チュウ 眼球製造者

あらすじ①

空から見下ろす、2019年11月のロサンゼルスの街の景色。そして、大きな瞳。タイレル社の外観。

タイレル社で被験者を待つホールデン。そこへリオンが入って来る。リオンにVKテスト(対象が人間かレプリカントかを判別する検査)を行うホールデン。いくつかの質問の後、「思いついた言葉で描写したまえ、母親について」と問い掛けたホールデンに、リオンは銃を向け、「返事はこれだ」と弾丸を撃ち込む。

荒廃した夜の街に酸性雨が降っている。地上の通りは、様々な人種の人で溢れ、街の喧騒には、あらゆる言語が混じっている。
人類の多くは、既に宇宙の新天地へ移住した。新天地移住につきものの過酷な労働は、タイレル社が開発したレプリカントと呼ばれる人造人間が担い、そこでは快適な生活が約束されている。
街の片隅で新聞を読んでいる主人公のデッカードは無職である。通りの日本人店主の呼び込みに誘われ飯屋へ入るも、片言のやりとりでメニューの注文もままならない。そこへ警察官を伴ったガフが現れ、ブライアントからの召集が告げられる。デッカードは、空飛ぶ車スピナーに乗せられ、ブライアントの元へ連れられて行く。
ブライアントの仕事の依頼はこうだ。
「新天地で奴隷労働をしていたレプリカント6体がスペース・シャトルをジャックし、地球へ来た。そしてタイレル社へ押し入り、2体が死亡した。残りの4体を見つけ出し「解任(殺害)」せよ。」
デッカードは、足を洗った元ブレードランナーだ。元職に復帰するつもりも無い。彼は、もう一人のブレードランナーであるホールデンに、この仕事を任せるようブライアントに提案する。しかし、ホールデンは問題のレプリカントに既に殺害されていて、任せられるのはデッカードしかいない、とブライアントは言う。それでも嫌がるデッカードに対し、ブライアントは、「権力には勝てんぞ」と脅しをかける。
デッカードは脅しに屈し、渋々任に就くこととなる。
そして、ターゲットのレプリカントの詳細が告げられる。
「戦闘用男性形でリーダーのロイ、ホールデンを殺害した戦闘用男性形のリオン、戦闘女性形のゾーラ、慰安用女性形のプリスの計4体であり、これらレプリカント「ネクサス6型」は、感情以外は人間と変わるところのない人造人間であり、その感情も、製造されてから数年経つと芽生える。そうなると面倒なので、安全装置として4年の寿命が定められている。」
「ひとまずタイレル社に1体いる、ターゲットとは別のレプリカントをテストしてこい。」とのブライアントの指示に従い、デッカードは空飛ぶ車スピナーに乗せられ、タイレル社へと向かう。

あらすじ①について

※オープニングの大きな瞳については、あらすじ②についてで解説します。

主人公デッカード

まずは、映画が始まった時点における、デッカードの状況についてです。
無職、独り身、招かれて反応する行動原理、言語によるコミュニケーションの困難さなどから、「どうしてよいか分からず迷っている人」、いわゆる新約聖書のマタイによる福音書に出てくる「迷える子羊(ストレイシープ)」状態であることがうかがわれます。

そして、ブライアントからの断ることの出来ない仕事の依頼は、選択される二人の内の一人であるホールデンが既に死亡していること。人間の欲望の為に製造されたレプリカントの始末を、その恩恵に授かっていないデッカードが負わされる事から、贖罪の儀式で、イスラエルの人々から贖罪の捧げものとして貰い受ける二匹の山羊の内の一匹である、民の罪を負わされ、荒れ野の堕天使アザゼルのもとへ放逐される「贖罪の山羊(スケープゴート)」の運命を担わされたことが分かります。
(二匹の内の一匹は、主に捧げられる【生贄として殺される】)
羊であり、山羊でもあるという、ややこしい奴です。ここは、デッカードの自己認識は「迷える子羊」であり、運命は「贖罪の山羊」であると捉えましょう。
レプリカントの説明ですが、感情以外人間と変わるところがなく、その感情も数年経つと生まれるそうで、それってもう人間じゃん、と思わずにはいられません。

プラキシノスコープの暗喩

リオンがVKテストを受ける部屋の、天井で回るシーリングファン。ブライアントの事務所の扇風機。ブライアントの机上にある、写真のランプシェードは、ランプ付きプラキシノスコープの暗喩です。

シーリングファン


左:扇風機と写真のランプシェード、右:ランプ付きプラキシノスコープ


ガフの折り紙:白い鳥


ブライアントの事務所で、ガフは白い鳥の折り紙を折ります。この白い鳥は、その場にいるデッカードとブライアントは見ていないことから、観客に向けたメッセージとして機能します。
ガフが観客に向けて折った白い鳥のメッセージとは、「白い鳥を見よ」です。
ガフの存在も含め、詳しい説明は追ってします。

あらすじ②

タイレル社。社長のタイレルに請われ、デッカードは、社長秘書のレイチェルにVKテストを行う。レイチェル退席後、デッカードは、「彼女はレプリカントである」とのテスト結果をタイレルに告げる。タイレルは、「レイチェルは自分がレプリカントであることを知らない」こと、そして、自分は人間以上のロボットを作ろうとしていること、彼女がその試作品であること、彼女に感情が芽生えつつあり、そのために苛立っていること、その対策として過去の記憶を与えるつもりであることをデッカードに話す。
その後、デッカードはガフの運転するスピナーで、リオンがVKテストを受けた際に宿泊していると言っていた、フンタバーサホテルへ捜査に向かう。そして、鱗と写真を手に入れる。
この時、ロイとリオンは、ホテルの下まで来ていたが、ホテル内に人の気配があったため、自分たちの痕跡を回収出来ずにその場を立ち去る。その足で二人は、眼球製造者ハンニバルを訪ね、ハンニバルを脅し、タイレルに会うためには遺伝設計技術者のJF・セバスチャンの案内が必要であるとの情報を得る。
デッカードは自宅で待ち伏せしていたレイチェルに会う。レイチェルは、子どもの頃の写真をデッカードに見せ、私をレプリカントだと思うか否か、と問う。それに対し、君はレプリカントで、過去の記憶は植え付けられたものだと答えるデッカード。それを聞いて、彼女は涙を流し立ち去ってしまう。
一方、レプリカントのプリスは、タイレル接触するためセバスチャンに接近し、彼の自宅へ潜り込むことに成功する。
ユニコーンの白昼夢を見たデッカードは、ホテルで回収した写真をPCで拡大し、その写真に写る凸面鏡に写りこんだ、眠る女の姿と鱗のようなものを発見する。

あらすじ②について

デッカードがレイチェルと初めて会って交わす会話は、フクロウについて話しをしている態でレイチェルについて話すデッカードと、フクロウの話しをしていると思っているレイチェルです。
「人工か?」「もちろんよ」「高そうだな」「ええ、私レイチェル」
昔のウィットに飛んだ会話というのは、たいがい高度なセクハラですね。

オープニングの大きな瞳

レイチェルがVKテストを受けるタイレル社の一室の窓から見える太陽の位置が、オープニングで街やタイレル社を見下ろしていた位置、つまり、その見下ろす位置のショットと切り返されていた瞳の位置を思わせます。テストのために部屋の明かりを落とすショットも、瞼を閉じる瞳を思わせます。


瞼を閉じる大きな瞳のようなショット



レイノーの投影式プラキシノスコープ

プラキシノスコープは後に進化し、1880年に投影式が開発されます。これは、環状に配列された一連のガラス板上に描かれた挿絵の帯に、外側から強い光を当て、その光を鏡が受けて反射し、その反射した光が拡大鏡を通って、スクリーンに画が投影される装置です。
この場面の太陽が、投影式プラキシノスコープの強い光を意味し、その光が拡大され、スクリーンに投影されたものを私たちが見ているという暗喩だとすると、オープニングの瞳のショットは、『ブレードランナー』を見ている私たちの瞳ということになります。拡大鏡を通して、光の像(『ブレードランナー』)を見る私たちの瞳は、2019年のロサンゼルスからは、空から街を照らす光をたどった先にある、大きな瞳なのです。


おわりになぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのかオープニングの大きな瞳に関する補足があります。


ガフが作るマッチ棒の人型

ガフがフンタバーサホテルで作るマッチ棒の人型は、デッカードが見ています。
ガフがデッカードに向けて作ったマッチ棒の人型のメッセージとは、「お前は見られている」です。
ただしこのメッセージは、デッカードが見ることで、私たちがその意味を知るメッセージになります。
この後のロイの初登場場面で、ロイが「写真の回収はできたか」とリオンに聞くと、リオンは「誰かいた」と答えます。それに対しロイは、「男か。警察か」と聞きます。マッチ棒の人型は、素材や色などが分からないシルエットです。そして、その人型のシルエットには、男根、もしくは腰に携える拳銃のような突起が付けられています。あのシルエットを見て、何であるかの連想ゲームをしたら、答えの多くは、「男か。警察か」なんではないでしょうか。このことから、ロイがデッカードの目線を見ている可能性が仄めかされています。
この、デッカード(の目線)が誰かに見られている、というメッセージは、この後の場面にも出てきます。

デッカードを見る者

それは、デッカードがホテルで回収した写真を、自宅のPCで拡大して見る場面です。
デッカードの見つめるモニターの右横にジョニーウォーカー ブラックラベルが置かれています。そして、彼が見つめる写真の中の凸面鏡の右横にもジョニーウォーカー ブラックラベルが置かれているのです。

ここでは写真を介して、過去のある一瞬を捉えてシャッターを切った誰かの目線と、デッカードの目線が重なっています。デッカードは、誰かの過去の目線に自分の目線を重ねていますが、そのデッカードが見つめるモニターの右横にもジョニ黒があることから、現在のデッカードの目線も誰かの目線と重なっていることが暗示されています。
この写真には、レプリカントと思われる男性の姿も写っていますが、ロイの右腕にあるタトゥーのような模様が無いため、この男性はロイではないことが分かります。


マッチ棒の人型のメッセージと、その後のロイの台詞「男か、警察か」から、ここでもまた、この写真の撮影者がロイであり、過去のロイの目線に自分の目線を重ねるデッカードの目線が、現在もロイの目線と重なっている可能性が仄めかされます。
デッカードの見つめるモニター右横のジョニ黒は、正面からモニターを映したショットには映るが、右横からモニターの側面を映したショットには映らない。カットが繋がっていないミスだが、解消するために、モニターを正面から映したショットのジョニ黒をトリミングで消すことが可能なはずなのに、それをしていない。このことからも、意味のある小道具だということが分かる。)

デッカードが見るユニコーンの白昼夢

デッカードが見るユニコーンの白昼夢は、彼の自己認識の変化の兆しを感じさせます。
彼の自己認識は、「迷える子羊(ストレイシープ)」ですが、「迷える子羊」とは、客体的な自己認識とも言えます。世界の中で、自分がどのような状況であるかという、他者と自己の相対化によって生まれる自己認識です。この、客体的な自己認識が主体的な自己認識に変化すると、孤独な「迷える子羊」は、孤高の「ユニコーン」に変化します。例えば、(「ぼっち」ではなく、「ソロ」なのだ)(友達がいないのではなく、一人が好きなのだ)といった自己認識の切り替えです。これは、客体的なものから主体的なものへ認識を切り替えることで可能となる自己認識の読み替えです。
なのでこの白昼夢は、客体的な「迷える子羊」が、主体的な「ユニコーン」へと変化する、その兆しのヴィジョンと言えます。

あらすじ③

デッカードは、写真に写る情報を手掛かりに、ホテルで回収した蛇の鱗の持ち主、タフィー・ルイスの居場所を突き止める。しかし、タフィーからレプリカントに関する何の情報も引き出せず、捜査は行き詰る。デッカードは、レイチェルをバーに呼び出そうとするが、こちらも振られてしまう。
一人で酒を煽りながら、始まったショーに目をやるデッカード、そこで踊り子に扮したゾーラを見つける。
デッカードは、バックヤードでゾーラを待ち伏せし、芸人組合の者に成りすまして彼女に声を掛け、ゾーラの後に次いで楽屋に侵入するも、ゾーラに言動を訝しがられ、攻撃され、そのまま逃走されてしまう。街中を逃走するゾーラと、それを追うデッカードデッカードは背後からゾーラを撃ち、ゾーラの解任(殺害)は完了する。
その様子を、通りで目撃するリオン。
リオンはデッカードの後を追い、一人になった隙を見て、デッカードに襲いかかる。持っていた銃を振り落とされ、一方的に殴られ、目を潰されそうになるデッカード。その時、リオンの背後にレイチェルが現れる。レイチェルは、デッカードが落とした銃でリオンを撃ち殺す。
自宅に戻ったデッカードとレイチェルは接近し、二人は結ばれる。
一方、セバスチャンに接近したプリスは、そこへロイを招き入れる。ロイはセバスチャンに、「寿命を延ばしたい」という自分たちの目的を告げ、彼を脅して取り入り、彼の案内でタイレル社へと向かう。
ロイはタイレルに会うが、寿命を延ばす方法が無いことを知る。
ロイはタイレルの目を潰して殺害し、続けてセバスチャンも殺害する。

あらすじ③について

ゾーラの死

半裸の状態に透明のレインコートをまとい、街を逃走するゾーラの姿は、あらゆる表象を脱ぎ捨て、懸命に生きようとする者の姿です。ゾーラが背中を撃たれながらも前に進み、突き破るショウウィンドウの透明なガラスは、様々な目に見えない境界を表しています。五枚のガラスがそれぞれ何を意味するのかは分かりませんが、最後のガラスは、生と死の境界です。彼女は、最後のガラスを突き破り、イミテーションが並ぶショウウィンドウから街の通りへ飛び出し息絶えます。このゾーラの死に様は、レプリカントがイミテーションではないこと、死が現実であることをデッカードに伝えています。


それを目撃するリオンの顔に、車のドアガラスが重なります。彼の生と死の境界もまた、目前に迫っていることが暗示されています。

リオンの最後の言葉

リオンは、「起きろ、死ぬ時だ」と言って、デッカードの目を潰そうとします。この台詞とリオンの行動から、起きることと死ぬことが同義であること、また目が潰れることと死ぬことも同義であることが分かります。
起きること・目が潰れること=死ぬこと、となる世界とは、夢の世界です。
現実では、誰も見ていない山奥で人知れず花が咲いて枯れますが、夢の世界では、そのようなことはありえません。見られていないものは存在しないのです。
ロイがデッカードの目線を見ている可能性があり、そのことをデッカードが知らないことから、デッカードはロイの夢の中の姿であると推察出来ます。
ロイは夢の中で、デッカードなのです。
そして夢の中の世界で、夢を見ている者(ロイ)と、夢として見られている者(デッカード)を繋いでいるのは、夢として見られている者の瞳です。デッカードの瞳が潰れることは、この夢の中の世界で、デッカードが存在出来なくなること、つまり死ぬことを意味します。夢を見ている者が目覚めている時も、夢として見られている者は存在しません。なので、起きること・目が潰れること=死ぬこと(存在が無くなる)となるのです。
ロイがタイレルの目を潰すのも、同じ理由からです。

タイレルは誰の夢か

ということは、タイレルも誰かの夢の中の姿ということになります。
そして、デッカードとロイのように、時間を掛けて、関係性を匂わす暗示を散りばめているとは考え難いことから、分かり易くタイレルの目線と切り返されて映る者が、その人物ということになります(ユニコーンの白昼夢もデッカードが見ているショットと切り返されることで、デッカードの白昼夢だと分かる)。
それが分かるショットは、セバスチャンがロイを連れて、タイレルの寝室に入ってくる場面にあります。セバスチャンが扉を開けて入ってくる時のショットは、タイレルの目線のショットです。そして、その直前にレプリカントのフクロウのアップショットが挿入されていることから、タイレルの夢を見ているのは、レプリカントのフクロウであることが分かります。フクロウのアップショット→タイレルの目線のショット→扉の方向を見るタイレルを斜め前から捉えたショットとなり、目線のショットを軸に、フクロウとタイレルの関係が表されています。
そうなると、「鶏が先か、卵が先か」と同じ問題が浮上するのですが、これは回転するプラキシノスコープの円環(ループ)の物語なので、始まりも終わりも無いのです。
ややこしいと思うのですが、このことは、オープニングの私たちの瞳が、『ブレードランナー』という夢を見ている暗示でもあります。夢は、現実の瞳で見ていません。そこに、夢の中の瞳(ロイにとってのデッカードの瞳、フクロウにとってのタイレルの瞳と同じもの)が想定されています。そして、私たちが目を開けて『ブレードランナー』を見るように、彼らもまた、目を開けて見る夢、白昼夢を見ていることが示されています。

トンネル

デッカードが、ロイの白昼夢の中の姿であることが分かると、意図が見えてくる場面があります。
それは、デッカードが車でトンネルを抜ける場面です。劇中に二度出てくるこの場面は、二度ともロイの登場場面の次に出てきます。そしてこのトンネルを抜ける場面には、この場で聞こえる音だとは言い切れない音がオーバーラップしています。一度目の場面の銃声は、デッカードが車内で流しているリオンのVKテストを撮影したビデオの音(リオンがホールデンを撃った音)に聞こえますが、走る車を外から撮ったショットに重なり、トンネル内に響いています。前の場面で、ロイとリオンが眼球製造者のハンニバルに会い、「タイレルの元へ案内できる者を教えろ」とハンニバルを脅していたことから、その後口封じのためにハンニバルを殺害したのだと推測すると、リオンのVKテストの音の暗喩から、リオンがハンニバルを撃ち殺した音がトンネルの場面に重なり、響いたと思われます。

一度目のトンネル場面

二度目の場面には、トンネルのショットのどこにも映っていないパトカーの音が重なっています。この音は、前の場面でタイレルとセバスチャンを殺害したロイの元に駆け付けた警察の音と推察出来ます。画面には、車でトンネルを走るデッカードが映っていますが、前の場面の続きが音だけ重なって聞こえています。これは、夢へ入って行く時に、点いているテレビの音や、外から聞こえる救急車の音が流れ込んでくる現象を表した場面です。

二度目のトンネル場面

また、二度目のトンネルの場面では、ロイとトンネルのショットがオーバーラップしています。ロイに重なったトンネルのショットが、デッカードの目線であることから、ロイの姿とデッカードの目線を重ねることで、ロイがデッカードの目線の持ち主であることを示す、切り返しを重ねたショットと言えます。

JF・セバスチャンが暮すブラッドベリー・アパート

セバスチャンが一人で住む過疎地域のブラッドベリー・アパートには、大量の人間の模造品があります。それは、ここがプラキシノスコープの中央世界であることを意味しています。プラキシノスコープの中央の鏡には、外周の人々の姿が集約され映ります。その鏡に映る人々の鏡像が、大量の人形として表されています。また実際に、鏡やその暗喩となる四角い枠もたくさんあります。
セバスチャンが暮らす部屋には、壁掛け時計があり、時を告げる音が鳴ります。中央世界の住人である彼は、時間の流れの中で暮らしています。だから彼は老いていきます。ここには外周世界には無い、時間があります。


人形・鏡・枠

壁掛け時計


あらすじ④

デッカードの元に、ブライアントからタイレルとセバスチャンが殺害された連絡が入る。デッカードブラッドベリー・アパートへ向かい、待っていたプリスを解任(殺害)する。

あらすじ④について

この後のデッカードとロイの対決は細かく見ていくので、まずはプリスの殺害について書いておきます。
兵隊慰安用として従属させられていたプリスは、花嫁のベールを被ってブラッドベリー・アパートにいました。色々見方はあると思いますが、死に方をふまえて考えると、花嫁のベールは処女の印に見えます。処女の花嫁は、デッカードに腹部を撃たれ、長い間激しく痙攣します。この悲痛な痙攣が、彼女の忌まわしい性の経験を凝縮しているように感じました。その後、ロイがプリスの死体を見つけるのですが、この時、死んだプリスは舌を出しています。このことは、性の痙攣が死の痙攣、つまり首吊り自殺を表していて、だからプリスの舌が出ていると捉えることが出来ます。彼女は忌まわしい過去の記憶に苛まれ、その記憶を抱え生きていくことに耐えられなくなり、首を吊って自殺した女性に見えます。



あらすじ⑤

※<あらすじ>を追いながら、その都度細かく見ていきます。

デッカードがプリスを解任(殺害)した直後、ロイがブラッドベリー・アパートに戻ってくる。気配を感じ、ドア越しに銃を構え、待ち受けるデッカード。奥のドア枠にロイの姿を見つけ発砲する。>

レプリカントという鏡像

四角いドア枠は、ここでは鏡の暗喩として出てきます。デッカードはロイにとって、白昼夢の中の自分ですが、デッカードにとってのロイは、ブレードを渡った先の中央世界(鏡面)に映る自分の姿であることを表しています。


<壁際で銃を構えるデッカードの腕を、ロイが壁を突き破って掴み取る。デッカードに殺されたゾーラとプリスの報復だとして、ロイはデッカードの指を2本折る。>

レプリカントの白昼夢

白昼夢の中でデッカードだったロイは、デッカードが殺したレプリカントが誰か分かっています。リオンの殺害(レイチェルのリオン銃殺は、当人たち以外誰も見ていない。また対外的にはデッカードが解任したことになっているであろうこと)が、デッカードによるものでは無いことを、ロイが知っていることが示されています。

デッカードは、ブラッドベリー・アパートの中を逃げ回りながら、折られて曲がった指を直し、痛みで叫ぶ。一方ロイは、デッカードの姿を探すそぶりもなく、アパートの中を走り回る。そして、デッカードの痛みに呼応するかのようにオオカミのような遠吠えをあげる。「見えているぞ」とつぶやくロイ。デッカードは、上階のバスルームに逃げ込み、折られた指を布で固定する。一方ロイは、「まだだ」と呟きながら、死が近づいているためなのか、動きにくくなった掌に釘を刺し、痛みの遠吠えをあげる。>

鏡と白昼夢の円環(ループ)

ロイは、白昼夢でデッカードが見えているため、探す必要がありません。「見えているぞ」という台詞は、本当に見えているのでそう言っています。デッカードが銃を落とし、デッカードの視線で落ちた銃を捉えたショットの後に、ロイは走りながら、そのことを面白がって笑い声をあげています。
また、ロイはデッカードの鏡の中の姿であることを表すかのように、枠から枠へと駆け抜けて行きます。そして、デッカードが痛みに悶絶すると、ロイが遠吠えをあげ、デッカードが負傷した手に、ロイが遅れて釘を刺すという、ワンテンポ遅れた呼応が見られることから、デッカードの鏡像であるロイが感情を持ち、デッカードになっている白昼夢を見ている。そして、白昼夢として見られているデッカードの鏡像であるロイが感情を持ち、デッカードになっている白昼夢を見ているという、タイレルとフクロウの関係と同じ、どこまでも続くループが見えてきます。

またこの場面は、レプリカントを解任する専任捜査官のデッカードが、追っていたはずのレプリカントに追われる対象になっています。これはデッカードが、「迷える子羊」であるために捕食される対象であり、ロイはその羊を捕食するオオカミに扮していると捉えることが出来ます。
また、ロイが自分の掌に釘を刺す描写は、民の罪を贖うため、十字架に磔にされたキリストの聖痕に見立てられており、「贖罪の山羊」の説話に沿った表現と見ることが出来ます。

デッカードの逃げ込んだバスルームの洗面台の壁をぶち破り、ロイが顔を出す。壁にはまり込んだ顔をロイが抜いている隙に、デッカードは壁をつたうパイプをもぎ取り、ドア枠からバスルームへと侵入してきたロイを打つ。
「いいぞ、その意気だ」
ロイの言葉に、攻撃が効いていないことを悟ったデッカードは、パイプを投げ捨て逃走する。窓を破り、アパートの外壁をつたって屋上を目指すデッカード。ロイは、その様子を満足げに見守る。デッカードは何とか屋上に上り着き、下へ降りる入口を見つけるも、そこからロイが出てきたため、進路を無くす。やむなく隣のビルに飛び移ろうとするが届かず、何とかビルの屋上の縁から飛び出た骨組みに手を掛ける。今にも落ちそうなデッカード。ロイは隣のビルの屋上から、その様子を眺めている。白いハトを手にしたロイは、助走をつけ、軽々とビルの谷間を飛び越え、デッカードの頭上へ忍び寄る。>

堕天使アザゼル

洗面台の壁も、本来なら鏡が取り付けられていたであろう所から、ロイは顔を出してきます。その後のドア枠から侵入してきたロイを、デッカードがパイプで打つ場面では、打たれたロイがよろめいて窓ガラスが割れ、その音が響いています。これは、鏡を叩いて割った音を、ガラスが割れる音で表しています。

一見、長くは生きられないことを悟ったロイが、面白おかしく享楽的にデッカードをいたぶっているように見える場面ですが、随所にロイの充実した様子や、清々しい様が見てとれます。デッカードと同じ空間にいることで、五感を実感できているような、心と身体が一致した感覚を味わっているような、そんな感じです。
また、屋上へ上がったデッカードの場面に鐘の音が重なっています。時を告げる鐘の音は、この後に来る、決定的な時を予感させます。
そして、ガフのメッセージ「白い鳥を見よ」の、白い鳥が出てきます。
また、宙づり状態のデッカードを、隣のビルから眺めるロイのショットには、「贖罪の山羊」の説話に沿った暗喩が見てとれます。


これは、仰ぎ見るような角度のショットであり、また、ロイの両背面に羽根(blade)が回っていることから、「贖罪の山羊」が捧げられる相手である、「堕天使アザゼル」とロイを重ねたショットであることが分かります。また、羽根を持つ彼は、ビルの谷間を軽々と飛び越えることが出来ます。
この後の展開で注目すべきは、白い鳥がどうなるのか、捧げられた「贖罪の山羊」を「堕天使アザゼル」はどうするのか(聖書には記されていない)、の二点です。

<ロイはデッカードの頭上に迫り、語りかける。
「恐怖の連続だろう。それが奴隷の一生だ」
デッカードの手が鉄の骨組みから外れ、落ちる瞬間、ロイはデッカードの手を掴み、屋上の上へと助けあげる。驚くデッカードの前に座り込み、ロイは話し始める。
「おれはお前ら人間には信じられぬものを見てきた。オリオン座の近くで燃えた宇宙船や、タンホイザー・ゲートのオーロラ。そういう思い出もやがて消える。」「時が来れば、雨の中の涙のように」「死ぬ時だ」
ロイは目を閉じ、死ぬ。そのロイの手から、握られていた白いハトが飛び立って行く。デッカードは動く鳥に驚き、瞬きをし、その口元は感嘆で開かれる。
「これで終わりましたね」その場に現れたガフの声に、「ああ、終わった」とデッカードは応える。銃を投げ渡すガフ。そのまま立ち去ろうとするも、振り向いてデッカードに告げる。
「彼女も惜しいですな。短い命とは」
自宅に戻ったデッカードは、扉が開いている事に不安を覚え、銃を構える。レイチェルを探すデッカード。そこには、眠る彼女の姿があった。「ついてくるか」デッカードの言葉に、「ついていく」と答えるレイチェル。二人が玄関を出ようとすると、足元には銀色のユニコーンの折り紙があった。それを手に取り、デッカードは頷く。>

死の間際の最後の力を振り絞り、「堕天使アザゼル」は、同じく死の間際の「贖罪の山羊」を助けます。そして、夢の中の「迷える子羊」に、死ぬとはどういうことかを説いて死にます。その目が閉じられた瞬間、白い鳥(映画冒頭では、紙で折られた偽者であり、動かなかったもの)は動き出し、空へと飛んで行きます。

贖罪の山羊

レプリカントは、感情以外人間と変わるところがなく、その感情も数年経つと生まれます。彼らがブレードランナーによって解任(殺害)されるのは、感情を持つからです。感情を持たないまま、人に従属していれば、彼らは裁きの対象とみなされないことから、この映画で罪とされているものは、感情であることが分かります。
またこのことは、「神の規準に反する行動、感情、考え」という聖書における罪の定義になぞらえられています。ロイにとって感情は、人間が課す奴隷労働からの解放を目指すための原動力になり、生きる欲望の源泉です。ロイは、感情を持つことが本当に罪なのか、という自身の苦悶に対し、「贖罪の山羊」の説話をなぞり、聖書に記述の無い、放逐された山羊と出会った「堕天使アザゼル」を生きることで、その答えに辿り着きます。
「贖罪の山羊」は、来るべきキリストの贖罪の前兆となる故事とされていることから、「堕天使アザゼル」になぞらえられたロイが、「贖罪の山羊」になぞらえられたデッカードを助けることで、人の罪はキリスト出現以前に、既に「堕天使アザゼル」によって贖われていた、と捉えることが出来ます。「キリストが贖った罪は、そもそも人の罪では無く、我々は冤罪をこうむったのだ(なぜなら罪は既に「堕天使アザゼル」によって贖われているのだから)」と解釈すると、デッカードが解任(殺害)の責を負わされた、人が作りだした罪の存在である、感情を持ったレプリカントの存在(そこで罪とされるのが、レプリカントの感情であることから、人の罪=感情となる)が、そもそも罪では無かったことになります。ロイは自らの手で、罪の定義から感情を解放し、デッカードを「贖罪の山羊」の運命から解放し、自分自身の存在を罪から解放するのです。
そして、この罪の贖いも円環の物語です。
この後キリストが誕生し、無実の罪を贖うことで人は冤罪をこうむることになる。そして人間はレプリカントを創造し、無実の罪である感情が罪とされ、感情を持ったレプリカントは解任(殺害)される。そしてロイが現れ罪を贖うのです。
ロイによる罪の贖いを完遂させるには、この円環の物語から抜け出さなくてはなりません。

迷える子羊

二人が向かい合って、ロイがデッカードに語りかける場面で、デッカードは自分の姿をロイに見つけ、ロイはどこまでも続く、眼差しの合わせ鏡の空間の中へ入っていきます。
ロイが死んだら、存在しない白昼夢の中の住人であったはずのデッカードですが、ロイが死んだ瞬間、彼の目線が彼自身のものになったかのように、空を飛ぶ白い鳥を見ます。回転するプラキシノスコープの外周からブレードを渡り、中央の鏡の世界へ辿り着き、ロイと向かい合い、彼の死を見つめ、動く鳥を見て、時が流れていることを知るのです。それは、時間の無い白昼夢の世界(固定された画の世界)からの脱却、そして彼が主体的な眼差しを獲得したことを意味します。デッカードは、客体的な眼差しを持つ「迷える子羊」から、主体的な眼差しを持つ「ユニコーン」になったのです。
またこのことは、鏡像が消え、かつ動く鳥が見える位置にデッカードが辿り着いたことを意味します。それは、デッカードが飛んでいく白い鳥を仰ぎ見たことから、彼が辿り着いた位置は、プラキシノスコープの中央にある鏡の円筒上であり、そこから私たちと同じ、スクリーンに投影された動く鳥を見たのです。これは、デッカードが私たちと同じ視点(この世界に対するメタ的な視点)を得たことを意味します。
円環の物語の続きが、円環の外にあることを知り、デッカードは円環の物語から抜け出したのです。
ロイが作り出した眼差しの合わせ鏡の空間がトンネルとなり、その空間の中へ、自分の姿を求めてデッカードが入り進んだことで、彼は鏡面を抜け、その円筒上へ辿り着いたと考えるのは行き過ぎでしょうか。
飛んで行く白い鳥の向かう空に、雲のようなものが見えています。

ガフの折り紙:銀色のユニコーン


これで終わった、と言っておきながら、ガフはデッカードに銃を投げ渡します。そして、「彼女も惜しいですな。短い命とは」と言い足します。ユニコーンの折り紙をガフが折る描写はありませんが、折り紙を見つめるデッカードのショットにガフの声が重なることから、ガフの折った折り紙と見なすことが出来ます。
ユニコーンの折り紙から導き出せるガフのメッセージは、「神と戦え」です。
神と戦うための銃(武器)、レイチェルの寿命についての台詞(動機)、ユニコーン(精神)がそろったと見なされたのでしょう。
これから物語は、円環の外へ進んでいきます。物語が円環でないのなら、タイレルレプリカントの創造主ではない可能性が生まれます。タイレルが、レプリカントのフクロウの白昼夢の中で、自分がレプリカントを創造した者であるという設定を与えられていた、などの円環を外れる可能性です。
ガフは、円環の世界の中を自由に行き来できるスピナーの操縦士であり、最後にそのスピナーで、鏡の円筒上に現れたことから、外周世界には無い時間の概念があることはもちろん、円環の外の世界も知っています。また、ロイの白昼夢の中のデッカードの水先案内人であり、私たちにメッセージを送ってきた人物でもあります。
ガフが、どのような世界を把握していて、どのような存在といえる人物かは不明ですが、これはどこにも描かれていないので推測でしかないのですが、神と戦う者を選び、導いた者なのかもしれません。


そして映画は、デッカードがガフのメッセージに気づき、そのメッセージに応えるように頷き、エレベーターに乗り込んだところで終わります。

おわりに

あらすじと解説は以上です。

デッカードのいるプラキシノスコープの外周からロイのいる鏡面、そして、私たち観客の見るスクーリーンを、同時に見ている。そして、それら全てが『ブレードランナー』という映画であり、そのような映画とは、まるで白昼夢のようなものである。といった、捉え方を要す映画です。

なぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのか

この映画の光ですが、投影式プラキシノスコープの光源しかないので、全体的に暗いです。真上から太陽が街を照らしたりはしません。
レイチェルのVKテストの場面では、しゃべるタイレルの後ろで反射光のような光がチラチラしています。たぶん投影式プラキシノスコープの照射位置に場面が重なると、太陽のように光源が見えて、その光を受けた鏡の反射光が照射されている場面に差し込むのだと思います。
また、上記のような照射位置の場面や、照射位置外の暗い場面があることから、私たちは、投影式プラキシノスコープが映し出す場面だけを見ているわけではないことが分かります。
この、「なぜプラキシノスコープで投影されていない場面が見えるのか」と、冒頭で触れた「なぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのか」、には深い関わりがあります。
まず、なぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのか、についてですが、映写機には、シャッターブレードという、映写機の照射窓を通過するフィルム(スクリーンに映るコマ)の手前で回転して、コマとコマの繋ぎ目を隠すブレード状のパーツがありまして、このパーツは、実際はスクリーンに映っているはずなのに動きが早すぎて目視出来ないパーツであり、かつ映写機にはあって、プラキシノスコープに欠けていたパーツです(あとシャッターブレードの機能さえあれば、動画の原理を満たす装置だった)。
見えているのに目視できないシャッターブレードは、物語の舞台が回転しているという暗喩の他に、デッカードの内面の動きを表し、また、外周世界の時間が帯では無く、コマとして分断しているという意味もあり、プラキシノスコープの世界にブレード(シャッターブレード)をつけることで、公開当時に映写機で投影されていた、この映画と映画以前の装置であるプラキシノスコープを、時空を超えて繋げるパーツとして用いられています。このシャッターブレードを介すことで、オープニングの瞳も、ただ単に投影式プラキシノスコープを見ている観客の瞳では無く、シャッターブレードという時空を超えた先にある、私たちの瞳として表されています。
シャッターブレードの下にプラキシノスコープの世界があり、シャッターブレードの上に公開当時の世界がある。そして、シャッターブレード越しにプラキシノスコープの世界を見ると、プラキシノスコープ全体が映写機の照射窓と同義のものになるので、照射されていないプラキシノスコープ内の場面も映し出されて見えるというわけなのです。
このシャッターブレードは、見えているのに目視できないパーツですが、この映画には、シャッターブレードと同じように、存在しているはずなのに目視できないものが出てきます。
それは、雲です。
街に散々降る雨が、上空では降っていません。ということは、街とその上空の間に雨を降らせる雲が見えないとおかしいのですが、上空から街を見下ろしても雲は見えません。いったいあの雨はどこから降っているのでしょうか。
それは、シャッターブレードを雲に置き換えて考えると分かります。2019年のロサンゼルスの上空には、ブレード状の回転する雲(台風やハリケーンのようなもの)があり、その雲が起こす風でプラキシノスコープのドラムが回転していて、あらゆる場面の繋ぎ目は、その雲のブレードで隠されている。またプラキシノスコープの世界は、その風で回転しているので、風はほとんど吹いていないが、やたらと雨は降っている状態にあると考えられます。投影式プラキシノスコープの光源がまるで太陽のように見えるように、シャッターブレードも回転する雲に置き換わって存在しているようです。そしてそれは、シャッターブレードと同じく目視できない雲として存在しています。

この映画は一つのものに対し、とにかくいくつも表象を重ねています。その全部に触れていたらキリが無いので、記事では分かりやすい表象を抽出して書いています。なのでゾーラの死に際は、この映画がまとう何層もの表象をメタ的に表した場面でもあります。本当は全裸でやらせたかったと思いますが、そうすると女性の全裸に表象や視点が集中しすぎるので出来なかったんだと思います。(だからって、リオンにやらせるわけにはいかない!)

ブレードランナー』と直接関係ないのですが、映画には回転するものがよく登場します。これは映画そのものの暗喩として登場するのですが、評論家がよく言う歯車は具体的には、映写機にあるスプロケットというパーツです。ただ、2012年頃を境に映画上映は映写機からプロジェクターに変わってるので、映画の定義も変わってます。なので、私が以前記事で書いた『散歩する侵略者』のファンは、具体的にはプロジェクターの吸排気ファンのつもりで書いてます。(シネコンはワンフロアにプロジェクターが並んでいて、それぞれ違う映画を映している。その空間を吸排気ファンで空気が循環するから、映画内にファンを持ち込めば、他のプロジェクターで上映している映画が映画内に流れ込んでくるはず、と黒沢清監督が考えたかどうかは知りません)


この映画で採用されているタッチは、20世紀のドイツ人画家・彫刻家で、シュルレアリスムの代表的画家であるマックス・エルンストの影響があるように思います。タイレル社の社屋や近未来のロサンゼルスの黒い街に、そのイメージの源流が窺えます。

「完全都市」(1935-36年)

「大きな森」(1927年)

マックス・エルンストの影響は、この映画が持つ絵画的なタッチに留まらず、物語の着想や構想にも及んでいると思われます。
私は、以下の文章を読んで、『ブレードランナー』という物語を理解するきっかけを得ました。マックス・エルンストの『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(1930)について書かれています。
ICC Review 夢の効用とリアリティThe Effectiveness of Dreams and Reality 清水哲朗
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic034/html/186.html#1

『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(1930年)

デッカードは、人間かレプリカントか?」の考察をいくつか見かけましたが、それが重要な事柄だとは思えません。正直どっちでも一緒だと思いますが、原作のタイトルに照らし合せると、『アンドロイド(レプリカント)は、電気羊(レプリカントの「迷える子羊」)の夢を見るか?』になって綺麗に納まるので、レプリカントでいいかなと思います。映画では、レプリカントと人間を同じ存在として描いているので、本当にどちらでもいい、ということは強調しておきます。それがどちらでも、この映画が意味するところは何も変わりません。好きな方を選びましょう。

押井守監督『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)への影響を指摘している記事を数多く見かけましたが、物語に関して言えば、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)への影響の方が、相当なものであることをつけ加えておきます。
解説などと仰々しいタイトルをつけましたが、ただ『ブレードランナー』から読み取れることを物語順に羅列しています。まったくナゾのまま『ブレードランナー2049』を見ても、ナゾの上塗りになるだけなので、自分で理解したところを整理するつもりで書きました。
大筋と違わない補足は、何かあれば順次書き加えていきます。

『東京物語』(1953年)を見てみた。

監督:小津安二郎

最近、神話系映画を立て続けに見ているので、少し気分を変えようと思い、『東京物語』を見てみました。神格化されている、と言っても過言ではない監督の代表作なので、どのタイミングでこの映画を見るかは、密かな課題だったのですが、努めて何気なく見てやりました。

前情報無しで見たので、「切り返しショットが多用されるサザエさん」ぐらいの、漠然としたイメージで見始めたのですが、冒頭の(終盤にもある)、まるでパルテノン神殿でも撮っているかのような風景の固定ショット(巨大建造物をギリギリ画面に納めたかのようなショット)の数々に度肝を抜かれ、もしかするとこれも神話系映画かもしれない、と早々に気持ちを改めました。


あらすじ

広島の尾道からおじいさんとおばあさんが上京し、東京で暮す長男と長女と、紀子に会う。みんな忙しく、そうそう相手も出来ないまま日が経ち、長女に頼まれた紀子が、仕事を休んで東京見物に連れ出す。その後、おじいさんとおばあさんは熱海旅行へやられるが、熱海の旅館は賑わいすぎで落着かなかったため、二人は一泊だけして東京に戻り、おじいさんは東京にいる旧友に、おばあさんは再び紀子に会い、尾道へ帰ることにする。その帰途、おばあさんの具合が悪くなったため、大阪の三男の家で療養する。
その後、東京の長男のもとに、おじいさんから無事帰り着いた報告と、世話になったお礼の手紙が届くが、長女のもとには尾道にいる次女から、「ハハ、キトク」の電報が届く。すぐに長男のもとにも同じ電報が届き、長男と長女と紀子は尾道へ行く。翌朝、おばあさんが亡くなる。遅れて三男が到着し、皆で葬式。葬式が終り、紀子以外みんな帰る。しばらくして紀子も帰る。


屋内は、ほとんどがゴロ寝アングルの固定ショット(ローアングルの固定ショット)。これは床に転がって、家の中を忙しく立ち回る母親をぼんやり眺めていた子どもの頃を思い出す、妙に落着くショット。
そして有名な、切り返しショット。
冒頭で触れた、ど迫力の風景ショット。
ほとんどこの3つのショットで出来ている映画でした。

まったくカメラは動かないのだろうか、と気にしていたら、物語の中盤で宿無しになったおじいさんとおばあさんが上野かどこかで座り込んでいる姿を見つけるために、一度だけ横移動しました。
あとは、おじいさんが家の窓から見る、おばあさんと孫が土手で遊んでいる様子を捉えた遠景の固定ショットや、熱海の堤防の上を歩く、おじいさんとあばあさんを斜め上から捉えた遠景の固定ショットがありました。これらは夢の中のように、土手や堤防が抽象化されていて、心象風景みたいでした。

有名な切り返しショットですが、とても驚いたものがあったので書き記しておきます。
それは、大阪の三男の家で療養していたおばあさんの具合がすっかり良くなって、おじいさんと会話をする場面にあります。

おじいさん「(省略)-よっぽどわしらは幸せな方じゃのう」
おばあさん「そうでさぁ、幸せな方でさぁ」

おじいさんからの切り返しショットで、おばあさんは上記の台詞を言った後に頭に手をやり、髪を直す仕草をします。それを見た時、(この人、死ぬんだな)と気づいて、悲しい気持ちになったのですが、何で今の仕草を見てそう思うのか、思った直後に驚いたので考えてみました。
結論は、台詞の後に付け足されたおばあさんの仕草が、おじいさんの思い出に見えたからです。その、ふと思い出したかのように付け足された仕草が、死んだ人を思い出しているようなのです。それは、カットを割らず、フラッシュバックを挿入するという、文章で書いたら俄かには信じ難いショットです。それまでの振りなり、タイミングなりが積み重なって、そのように機能したと思うのですが、それがどうやったら出来るのか、全部見たのに全然分からない。

切り返しショットについて、主観や対立を表すぐらいの拙い理解しかなかったのですが、このような表現が可能なことに驚かされました。
また、こういうショットは現実に影響を及ぼしますよね。この後、近しい人の仕草にふと目がいった時に「死」が過るようになるやつです。

映画が始まっても、しばらく紀子さんが何者なのか分からず、遺影が映ることによって彼女の正体が明かされること。人物のいる建物の外観は映されず、外の景色は、主にど迫力の風景で示されること。おじいさんが死んだ次男の話しをする時、少し伏せた顔に影が覆い表情が分からなくなる怖ろしい演出。これってどう評価されているんだろうと不安になるほど、無邪気で明快な、木魚の音をバックに、死と相対した三男の顔と墓場を切り返す身も蓋もないショット。

見る前は、素晴らしいのだろうけど、今見たら地味な映画かと思っていたのですが、派手な画も多く、かなり個性的な映画でした。

『CURE』(1997年)を見直してみよう No.4 最後に高部はどうなったのか

黒沢清イングマール・ベルイマンに似ているとよく思う。
黒沢清の著作物や、黒沢清について書かれた本の中で、ベルイマンについての記述を読んだ覚えはないが、(『恐怖の対談―映画のもっとこわい話』(青土社 2008年)で、テオ・アンゲロプロスベルイマンについて言及するが、インタビュアーの黒沢清は反応していない)意識的に触れないようにしているのではないか、と疑うぐらいには似ていると思っている。
まず、『CURE』(1997年)は『第七の封印』(1957年)に似ている。

海岸に突如現れる神の御使い「死神」。登場といい、神の不在と神と御使いの関係といい、神と「死神」、伯楽陶二郎と間宮には共通点が多い。『CURE』について調べていた時、『怪人マブゼ博士』(1932年)との類似を述べた文章を数多く見かけたが、いくつかの文章を読む限り、マブゼと伯楽陶二郎にまつわるガジェットの類似の指摘と、マブゼと間宮の行為をテロリズムと位置づけ、その共通点について述べているものが多かった。私には間宮の行為がテロリズムとは思えない。彼に目的があると思えない。間宮は何らかのイデオロギーに属していない。彼は超人的であり、空っぽであり、振る舞いは自動的で、その様子は『第七の封印』に出てくる神の御使い「死神」に似ている。(「死神」が死を擬人化したものなら、間宮は何の擬人化だろうか。人に人を殺させるのだから殺意の擬人化だろうか。)そして似姿を残し、御使いを寄越す伯楽陶二郎の不在は、『第七の封印』における神の不在に似ている。
『怪人マブゼ博士』では、カーテンの向こうのマブゼの姿と声が、カーテンを開けて見てみると実は人型の模型と蓄音機の音だった、という場面があるそうだ。『CURE』との類似として挙げられる場面だが、『CURE』では、半透明のビニールカーテンを開けると写真があった。蓄音機は別の部屋、空飛ぶバスでしか行けないと思われる廃墟となった病院のシークエンスの最後に登場する。
『怪人マブゼ博士』で同時に現れた人型の模型と蓄音機の音、そのような似姿や録音された音が、『CURE』では時間差で現れる。なぜ音が後なのか。

廃墟の病院の中で、半透明のビニールカーテンを開け、伯楽陶二郎らしき人物の、薄ぼんやりとした写真を見た高部は落胆した様子だった。その後、壊れたベッドに腰掛けて脱力したように笑った。そこに間宮が現れる。
間宮「やっと来たね、刑事さん。どうして俺を逃がしてくれたの」「わかってる。俺を逃がして俺の本当の秘密を突き止めたかったんだ。あんた一人だけで。そんなことしなくてもよかったのに。本当の自分に出会いたい人間はいつか必ずここへ来る。そういう運命なんだ」
うなだれていた高部はおもむろに立ち上がり、間宮を拳銃で撃つ。倒れこむ間宮。
高部「思い出したか。全部、思い出したか」頷く間宮。「そうか。これで、お前も終わりだ」
掲げられた間宮の指が、それを見下ろす高部に向かってXのような模様を描く。その直後、高部は間宮を撃ち殺す。

この場面で何より気になるのは、高部と間宮が似たようなトレンチコートを着ていることだ。

『CURE』の冒頭で文江の持つ『青髭―愛する女性(ひと)を殺すとは?』(新曜社 1992年)の提示によって示された、高部の文江に対する殺意。高部の殺意は、この映画の一番初めにあった。間宮の登場より前にあった。だから、間宮は高部の殺意の擬人化かもしれない。高部の殺意が人の姿をとって、動いて話せるぐらいに具象化したのだとしたら。間宮は高部の内にあった。高部から発生した。だから二人の衣装は似ている。
ただ、ことはそう単純ではない。
もし「死神」があなたの目の前に現れたら、それはあなたの死を司る「死神」。あなたの死が具象化されたものだろう。死や殺意といった普遍的な事象は誰のものでもある。目の前に現れたその時に、それと対峙した人に事象として現れる、そういう類いのものだろう。それが誰の殺意であろうと、それは誰の殺意にもなる。
だから、間宮と対峙した者は人を殺す。

『CURE』は、ある男が妻に対して殺意を抱き、その殺意と相対する物語だ。
その殺意は見知らぬ男の姿で街を徘徊する。
妻を殺したい。妻を失いたくない。相反する欲望が男の中で渦巻いている。
この状態から救われたい。
男は、見知らぬ男を調べていくうちに形而上的な存在を知る。
男は救いを求め、その存在へと迫っていく。

『CURE』で、形而上的な存在として示されるものに「邪教」がある。映画の世界はキリスト教が圧倒的一大勢力なので、この「邪教」とはキリスト教以外の宗教、という意味だと解釈した。その場合、『CURE』における形而上的な事象を、キリスト教と相対化させて捉えればいいのではないかと思う。
『CURE』(1997年)を見直してみよう No.3沢山の病院とタイトルCUREの意味
の中で、高部が最後に辿り着く廃墟となった病院に関して、「高部がバスに乗り、林を歩いて辿り着いたことから、遠くにあり、またその荒廃の様子から古い建物であることが分かる。これらが、古いものは遠くにある、遠くにある古いものに根本がある、という宇宙論的表現ならば、」と書いたが、この廃墟となった病院の、抽象的な距離や荒廃の表現が宇宙論的表現ならば、この廃墟となった病院に全ての根本、始まりがあるはずである。
前置きが長くなった。
「『怪人マブゼ博士』で同時に現れた人型の模型と蓄音機の音、そのような似姿や録音された音が、『CURE』では時間差で現れる。なぜ音が後なのか。」
という疑問について書いていく。
全ての根本、始まりがある廃墟となった病院で、最後に高部が辿り着いた部屋で聞く、蓄音機から鳴る音。それは全ての始まり、キリスト教でいうところのロゴスである。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。―『創世記』1:3

はじめに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった。―『ヨハネによる福音書』1:1

ロゴスは哲学用語としても使われ、解釈も多様なようなので、理解が満足に及ばないが、神が光をもたらす、創造するのではなく、「光あれ」というロゴスによって光があることから、ロゴスこそ神の本質だという理解のようだ。
邪教」における、はじめにあるロゴス。神とともにあり、神であるロゴス。それは、廃墟となった病院で、最後に高部が辿り着いた部屋で聞く蓄音機から鳴る音である。その音は、複製された神そのものである。ロゴスは蓄音機からの音として表され、複製物の神であることが強調されている。このことを単純に解釈するなら、写真と蓄音機は映画という複製物の隠喩として用いられていると考えられるだろう。映画は、光から音の順に成り立ってきた歴史を持つ。しかし『CURE』では、映画における光より前にあるものとしてロゴスが示されている。

蓄音機から鳴る音を高部が聞いているショットが切り替わると、怯えとも怖れともつかない表情で振り返り、こちらを見つめる看護婦が映る。次に、Xに切りつけられ、何かに固定され移動している文江のバストショットが短く映る。そして最終場面冒頭、ファミレスで食事を終え、タバコに火を付ける高部へとつながる。
ファミレスで食事を終えた高部の様子は、それまでとは打って変わって旺盛で快活で落着いている。なにもかもが上手く片付いたかのようだ。左の薬指には結婚指輪が見える。数秒前には、とても生きているとは思えない文江の姿が映ったというのに、これはどういう事なのだろうか。
この最終場面で気になるのはカメラワークだ。
高部の右側から、ファミレスのガラス壁をバックに、腰掛ける高部の全体とそこに出入りするウェイトレスを固定カメラで撮っていたのが、食後のコーヒーを持ってきたウェイトレスがフレームアウトしたあたりで切り替わる。その後カメラは、高部の左側から画面右側にある高部の頭部越しにファミレスの内部を捉えるが、そのまま固定されることなく動き続け、やがて高部はフレームアウトする。このフレームアウト後も、高部が吸っている煙草の煙が画面に干渉していることから、高部が映っていない最終ショットは、限りなく高部の視点に近いものだと思われる。
この最終ショットは、高部の視点と観客の視点を重ねたものだ。観客と同じものを、観客と同じように高部は見ている。つまり、観客も高部も映画を見ている。高部は自分のいる世界が、映画の中であることを知っている。どうも高部は、映画のロゴスとの遭遇により、それが分かったようだ。
『CURE』の約2年後に公開される映画『マトリックス』(1999年)。この『マトリックス』の主人公ネオと殆ど同じことが、映画のロゴスとの遭遇により高部に起きている。
妻を殺したい。妻を失いたくない。相反すると思われた欲望が満たされている。
最終ショットの視点の重なりによって、すっかり高部がこの映画の主導権を握ってしまったようだ。物語が始まるある出来事。例えば殺人。そういった出来事を、間宮のように催眠術など用いず容易く起こすことが出来るようになっている。それはあたかも、映画を見る観客のように、映画館の椅子に腰をかけスクリーンを見つめるだけで、自動的に出来事に遭遇するかのように起こるのである。

文頭で触れたベルイマン黒沢清について、上記文中で触れられなかった他の類似を補足しておく。ベルイマンの『魔術師』(1958年)の主人公は、メスメルの動物磁気を用いて魔術を操る旅芸人である。またこの『魔術師』には、『岸辺の旅』(2015年)に出てくる「怖い夢を見た」(どんな夢かは語られない)という何かしらの告白のような台詞も出てくる。
海岸に突如現れる登場人物、メスメルの動物磁気、「怖い夢を見た」(どんな夢かは語られない)という台詞。私は黒沢清ベルイマンも全作品見ているわけではないので、まだ他にもあるかもしれない。ただ、この3つの類似に気づいて思うのは、偶然似るにしては特殊な表現である、ということだ。ヒッチコックにしてもリチャード・フライシャーにしても、黒沢清は元映画が判るような、目を引く表現を模倣する。なので、ベルイマンとの類似もそうではないのかと思うが、模倣する監督について大概言及している黒沢清が、ベルイマンについては何も語っていない。私が知らないだけだろうか。

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『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)について

監督:黒沢清

ネタバレあります。

お正月休みに『ヴァンパイア/最期の聖戦』(1998年)を見ていて、『クリーピー 偽りの隣人』が吸血鬼映画だったことに遅ればせながら気づいたので書いておく。

以下は、『クリーピー 偽りの隣人』と吸血鬼映画の分かりやすい類似点を箇条書きしたもの。
・高倉(大学教授。専門は犯罪心理学)と西野、ヴァン・ヘルシング(大学教授。専門は精神医学)とドラキュラの対立構図。
・短い階段のアプローチから地下、または半地下に至る死にまつわる空間。西野家の監禁・殺害部屋と吸血鬼映画の地下墓所
・康子の腕の注射痕のショットと、吸血鬼映画の首元の牙痕のショット。
・ドラキュラを思わせる西野の黒ずくめの装い。
・多くの吸血鬼は住居込みの存在である(ドラキュラ城、西野家)。

クリーピー 偽りの隣人』の観賞直後の印象は、"民間伝承だか都市伝説だかを見ているような映画"だった。物語の舞台が郊外と田舎の境界であることや、物語が断定的に進行する様、田中が西野を指して言う「鬼」という言葉がそう思わせた。
なので『クリーピー 偽りの隣人』を吸血鬼映画と捉え、いくつかの吸血鬼映画を確認がてら鑑賞するとともに、民間伝承として語られる吸血鬼も知りたかったので、『吸血鬼伝承』(平賀栄一郎2000年)を読んでみた。
この本で吸血鬼は以下のように定義される。

「それは「生ける死体」である。死したのち墓処からふたたび肉体のまま現れて(亡霊〈亡魂〉でなく)、人々に、とりわけ近親者に害をなし、死に引きこむ死者である」「死して葬られたのち、葬処より起き上がって親族や隣人を襲う死者。生と死の境界を暴力的に侵犯する凶々しく肉体的な危険。」

まずは「吸血鬼」の名称について、混乱を避けるために先に断っておく必要があるだろう。上記の定義に含まれていない吸血行為についてだが、『吸血鬼伝承』では以下のように説明されている。
「一般に血を吸うのがヴァンパイアVampireの特質と考えられ、日本語の「吸血鬼」などまさにその性質のみに基づく命名だが、東欧の「吸血鬼」が血を吸うことは決して多くない。―「吸血」は「吸血鬼」の本質ではないのだ。血は体液のひとつであり、―「生気を奪う」の比喩的具象化と考えてもいい。」

この本によると、ヨーロッパにおける吸血鬼の故郷は、東欧・バルカン地方の伝承にあるそうだ。
「「東欧」というのは、―ヨーロッパ文明の中心である西欧と、それと異質な、あるいは異質な面の多いトルコやロシアへの移行の場、グラデーションの空間、ヨーロッパ文明の辺境。」
上記の定義に当てはまる怪異・妖怪の存在は「移行の場」「グラデーションの空間」、特定の文明の辺境に現れ、それらは呼称は違えど吸血鬼と括られる。
吸血鬼伝承が伝わる場所の特徴(「移行の場」「グラデーションの空間」、特定の文明の辺境)に『クリーピー 偽りの隣人』の物語舞台の特徴「郊外と田舎の境界」との重なりがあるように思える。

そもそも東欧・バルカン地方の土俗的信仰であった吸血鬼は、西欧に「発見」され、17世紀から18世紀にかけてドイツ・フランスの学界や有閑人士たちの間で一大吸血鬼ブームを巻き起こした。その後、1897年にイギリスで刊行されたブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』のヒットによって広く知られるようになり、これを原作とした映画(『吸血鬼ドラキュラ』1958年)もヒットしたことから、「若い女性の生血を吸う黒マントの長身で上品な紳士」という現代の吸血鬼のイメージが形成されたようである。

以上のことを踏まえて、
クリーピー 偽りの隣人』を吸血鬼映画のフォーマット(そのようなものがあるのかどうかは知らないが、いくつかの吸血鬼映画に共通して見られる演出やモチーフはある)を踏襲しながら、伝承される吸血鬼「生ける死体」の存在を現代に見出している吸血鬼映画だと捉えてみよう。

西野は吸血鬼映画に登場する吸血鬼である。
吸血鬼映画に登場する吸血鬼とは、吸血鬼として登場し、人々を恐怖に落としいれ、人々と対立する存在である。
クリーピー 偽りの隣人』から離れてしまうが、黒沢清フィルモグラフィーに目を向けると、西野役の香川照之は、『トウキョウソナタ』(2008年)に佐々木竜平役で登場しており、この佐々木竜平という人物には、自動車にはねられ、路肩に横転した状態で動かなくなり、やがて動き出すという場面がある。この場面は、「意識を失った人間が意識を取り戻した」とも「死んだ人間が動き出した」ともとれる。どちらにしろ映像に違いはない。同じ理屈で西野昭雄と佐々木竜平にも映像に大きな違いはない。どちらも香川照之である。この場面を、「死んだ人間が動き出した」とした場合、黒沢清フィルモグラフィーに吸血鬼「生ける死体」として香川照之が登場する流れはあるのだが、吸血鬼映画に吸血鬼が登場するのに理由などいらないので過去作品は無視してかまわない。
西野は吸血鬼である。
西野はまず、何らかの条件に見合った家を見つける。その家をターゲットに、そこに暮す者に取り入り、何か常習性のあるものを注射して家人を操り、家と金を手に入れて暮しているようである。その暮しに障害となる者は殺害され、利用できる者は生かされる。西野は生存というよりも社会の中で暮すために人々を利用し、必要であれば何かしらを注射して生気を奪い、その者を操る。
『ヴァンパイア/最期の聖戦』では、ヴァンパイアに咬まれた者は、体力・意識レベルが下がり、時間が経つにつれ自身を襲ったヴァンパイアと意識がつながり始め、およそ48時間が経過するとヴァンパイアになる。劇中で「吸血により何らかのウイルスに感染しヴァンパイアになる」という吸血鬼ハンターの台詞があったが、吸血と同時にウイルスが注入されているのだろうか。ウイルスでも注射でも、どちらにしろ被害者の体力・意識レベルが下がり操られるのは『クリーピー 偽りの隣人』と同じである。

この吸血鬼の手口に康子はなぜ落ちたのだろうか。
康子は新天地に越してきた主婦だ。手の込んだ料理を作り、ペットをしつけ、愛想よく近所付き合いをしようとする。しかし、近所の田中からは近所付き合いはしないと言われ、隣人の西野からは、ここら辺の人は近所付き合いをしないと言われ、彼女にとっての社会がすっかり西野だけになってしまう。康子の何気ない会話を歪める西野の反応が、彼女にとっての社会の反応になってしまう。彼女の主婦としての模範的な振る舞いが社会との相対化によるものだったとしたら、その社会が西野に取って代わったことで、彼女の振る舞いが狂いだすのも無理はない。
アンダーパスで握手を求める西野に手を差し出す康子。握手を求める隣人に対し、康子は断る術を持たない。彼女の模範的な振る舞いが形骸化された自動的なものであること。そこに自由意志などないこと。「私もうとっくに諦めちゃったのよいろんなこと」と康子は高倉に言う。康子はもうずっと前から形骸化され、自由意志を持たず、自動的に振舞っていたのだろうか。西野はそのことを暴いただけなのだろうか。
だとしたら西野という『クリーピー 偽りの隣人』が描く吸血鬼は、形骸化された人間を暴く触媒なのかもしれない。

高倉はどうだろうか。
映画冒頭、高倉は警察署内で連続殺人鬼と面談をする。間も無く、その連続殺人鬼は署内を逃亡し、人質を取り、高倉が事態を収めようと連続殺人鬼に説得を試みる。しかし、その説得は失敗し、高倉はフォークで刺され倒れこむ。
このフォークによる刺痕が映されることは無いが、想像するに牙痕や注射痕と良く似たものだろう。高倉はこの時「生ける死体」になった。そう考えると、高倉が西野の監禁・殺害部屋にある死者が入れられる穴、または入ると生きては出られない穴(谷本刑事の最期)に入り、腕の力だけでヒョイッと上がってくることや、注射により操られなかったことの説明がつく。高倉はとっくに「生ける死体」だったのだ。彼には生と死の境が存在しない。
またこのことから、劇中で用いられた「鬼」という言葉が「殺人鬼」や「吸血鬼」といった秩序・無秩序混合型に共通する概念であることも見えてくる。イメージの吸血鬼ではなく、伝承される吸血鬼「生ける死体」は、日本ではただ「鬼」と呼ばれるのかもしれない。

映画終盤、西野は同じ「鬼」である高倉を操れていると思い込み、高倉に拳銃を渡し犬を殺すよう指示を出す。その好機に乗じ、高倉は西野を撃つ。撃たれた西野はその場に倒れこみ動かなくなる。劇中の高倉家のカレンダーが6月だったことから、倒れ込んだ西野に枯葉が吹きつけるショットは、倒れ込んだずっと後の出来事、もしくは西野の肉体が滅ばない暗示だろう。西野は吸血鬼「生ける死体」だから、また動きだすかもしれない。
そのショットに康子の叫びが重なる。彼女の叫びもずっと続いているのだ。西野家に乗り込んだ高倉に、「あなたまでここにくる必要なかったのに」と言った康子は、夫が「生ける死体」だとは気づいていなかった。康子が形骸化した理由は分からないが、高倉にその理由があるのだとしたら、例えば、高倉を生かすために彼女が形骸化したのだとしたら、とっくに高倉が「生ける死体」だったという事実に絶望し、叫び続けているのかもしれない。

長くなりました。ここらへんでやめます。
混乱するかもしれませんが、「吸血鬼」「鬼」「生ける死体」という言葉は、ほぼ同義で使用しています。
公開当初、黒沢監督がこの映画をダークファンタジーと言っていて、全く意味が分からなかったのですが、吸血鬼映画ならダークファンタジーですね。