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『ブレードランナー』あらすじ・解説

監督:リドリー・スコット

ブレードランナー2049』(2017年)が間もなく公開されます。ということで、SF映画の金字塔『ブレードランナー』を見直してみようと思います。

はじめに

この映画は、「リサーチ試写版(ワークプリント)1982年」「オリジナル劇場公開版(1982年)」「インターナショナル劇場公開版(1982年)」「ディレクターズ・カット(最終版)1992年」「ファイナル・カット(2007年)」といった、5つのバージョン違いが存在し、その全てがソフトで見られるようになっています。
また、この映画の熱狂的なファンは、それら手持ちのソフトを見直しながら、ああでもないこうでもないと語り合い、監督や出演者、スタッフの証言などから細かく設定を探り、小道具に付された形而上的、または心理学的意味づけから、果ては使用されたセットや小道具のその後の足取りまで、とにかくありとあらゆる情報を『ブレードランナー』に加え続けています。

なので、『ブレードランナー』は「カルト映画」なわけですが、今回はそこを一旦忘れて、ただの一本の映画として見直してみようと思います。
この記事は、『ブレードランナー2049』(2017年)を見る前に見直しておくなら最新版かなと思い、『ブレードランナー ファイナル・カット』(2007年)を見て書いています。

物語のあらすじは単純なんですが、あらすじの裏に隠された物語が絶対あるだろう、と思わせる意味深長な映画です。そこらへんが「カルト映画」たる所以なんだと思います。なんか絶対ある!と思って謎解きにのめり込んでしまうのでしょうね。
そして、フイルム・ノワールを思わせる、光と影のコントラストが強調された画面作り。煙や湯気やネオンや人ごみといった、アジア的なイメージが何層も重なった虚無的で退廃的な夜の街の風景。そこに降る、シュヴァルツヴァルト酸性雨。そして、ジョニーウォーカー ブラックラベル。
めちゃくちゃ気取った白黒映画に、雑多な光のレイヤーを重ねたような、黒く眩いアンビバレントな未来都市がとにかく格好良いです。またそのような世界の描き方が、デザインで統一されているというよりも、絵画的なタッチで統一されているのが、これまた格好良いです。

この映画の原作は、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年)ですが、映画のタイトルは、主人公デッカードの職業名である、ブレードランナーに変更されています。ブレードランナーという名称の元ネタについては、ネット上に散々書かれている通りだと思いますが、なぜこの名称が映画のタイトルに採用されたのでしょうか。
その答えは、映画のいたるところに映るものから推測出来ます。
この映画には、いたるところに、シーリングファンの羽根、扇風機の羽根、とにかく回っているものの羽根を意味するブレード(blade)が映っています。
主人公デッカードは、このブレード(blade)を走る者(runner)なのです。
だから、タイトルはブレードランナーなのです。
(いや、ソファーで寝たり、車を運転したりしてたけど)と思われると思うのですが、この映画は、物語の扱う主要な題材ゆえに、物語の理論とその構造を担う、舞台装置が設けられています。登場人物たちは、2019年の未来都市ロサンゼルスを行き交いながら、その舞台装置の上にも配されています。この映画の舞台は、私たちが知るところの設定と物語にそれぞれ設けられ、それらが重なっているのです。

この物語が扱う主要な題材とは、白昼夢です。
この白昼夢という題材により、「映画が何でもあり」の状態になることをリドリー監督は嫌ったのでしょう。白昼夢の理論とその構造。そのような、あるんだかないんだか分からないものが想定され、物語は語られていきます。
その白昼夢の舞台装置とは、映写機の原型に限りなく近づいたといわれる、動く画を見る回転装置「プラキシノスコープ」です。


プラキシノスコープ
フランスのエミール・レイノー(1844-1918)によって発明された。
回転ドラムの中央に鏡の円筒、その周囲に挿絵の帯がある。中央は十二枚の鏡から構成されていて、そのそれぞれが挿絵の帯に描かれた十二枚のデッサンの一つ一つを映し出す。装置が回転すると、観客は一度に一枚の挿絵だけしか見ることができない。その挿絵は観客の視線に直角に置かれた鏡によって映し出される。
参考文献 ジョルジュ・サドール著『世界映画全史1 映画の発明-諸器機の発明 1832-1895 プラトーからリュミエールへ』(1992年)


この白昼夢の装置の外周面に、デッカードがいる世界。中央の鏡面にレプリカント、ロイ達の世界があります。そして、この装置の上空では、本来のプラキシノスコープには無いブレードが回転しています。
なぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのかについては、文末のおわりにで触れます。

この装置の暗喩は、シーリングファンや扇風機としても映画の中に示されますが、一番分かりやすいのはビルの屋上のショットです。


カメラは回転するように動き、その上を飛ぶスピナーも旋回する
※スピナー(Spinner)には、“急回転するもの”の意味がある

この装置により、時間の流れが無い(固定された画)外周世界と、時間の流れがある(鏡に写る動く画)中央世界の構図が出来上がります。
そして、円環(ループ)する物語が見えてきます。

時間の流れに気づくために、外周世界からブレードを渡り中央世界へ行く。
それがブレードランナーである、主人公デッカードの物語です。

以下であらすじを確認しながら、『ブレードランナー』のショットや場面、小道具について意味するところを探り、この映画が何を描いているのかについて、最後まで書いていきます。

登場人物

警察組織

リック・デッカード レプリカントを解任する専任捜査官ブレードランナー
ガフ        デッカードの案内人、スピナー操縦士
H・ブライアント   ブレードランナーの統括者
ホールデン     ブレードランナー、リオンを取調べ中に銃殺される

レプリカント

ロイ・バッティ   リーダー、戦闘用男性形
レイチェル     タイレル社秘書、デッカードと恋人関係になる
プリス       兵隊慰安用女性形
リオン       戦闘用男性形
ゾーラ       戦闘用女性形

タイレル

エルドン・タイレル 社長、天才科学者、レプリカントの創造者
JF・セバスチャン  遺伝設計技術者、早老症を患う
ハンニバル・チュウ 眼球製造者

あらすじ①

空から見下ろす、2019年11月のロサンゼルスの街の景色。そして、大きな瞳。タイレル社の外観。

タイレル社で被験者を待つホールデン。そこへリオンが入って来る。リオンにVKテスト(対象が人間かレプリカントかを判別する検査)を行うホールデン。いくつかの質問の後、「思いついた言葉で描写したまえ、母親について」と問い掛けたホールデンに、リオンは銃を向け、「返事はこれだ」と弾丸を撃ち込む。

荒廃した夜の街に酸性雨が降っている。地上の通りは、様々な人種の人で溢れ、街の喧騒には、あらゆる言語が混じっている。
人類の多くは、既に宇宙の新天地へ移住した。新天地移住につきものの過酷な労働は、タイレル社が開発したレプリカントと呼ばれる人造人間が担い、そこでは快適な生活が約束されている。
街の片隅で新聞を読んでいる主人公のデッカードは無職である。通りの日本人店主の呼び込みに誘われ飯屋へ入るも、片言のやりとりでメニューの注文もままならない。そこへ警察官を伴ったガフが現れ、ブライアントからの召集が告げられる。デッカードは、空飛ぶ車スピナーに乗せられ、ブライアントの元へ連れられて行く。
ブライアントの仕事の依頼はこうだ。
「新天地で奴隷労働をしていたレプリカント6体がスペース・シャトルをジャックし、地球へ来た。そしてタイレル社へ押し入り、2体が死亡した。残りの4体を見つけ出し「解任(殺害)」せよ。」
デッカードは、足を洗った元ブレードランナーだ。元職に復帰するつもりも無い。彼は、もう一人のブレードランナーであるホールデンに、この仕事を任せるようブライアントに提案する。しかし、ホールデンは問題のレプリカントに既に殺害されていて、任せられるのはデッカードしかいない、とブライアントは言う。それでも嫌がるデッカードに対し、ブライアントは、「権力には勝てんぞ」と脅しをかける。
デッカードは脅しに屈し、渋々任に就くこととなる。
そして、ターゲットのレプリカントの詳細が告げられる。
「戦闘用男性形でリーダーのロイ、ホールデンを殺害した戦闘用男性形のリオン、戦闘女性形のゾーラ、慰安用女性形のプリスの計4体であり、これらレプリカント「ネクサス6型」は、感情以外は人間と変わるところのない人造人間であり、その感情も、製造されてから数年経つと芽生える。そうなると面倒なので、安全装置として4年の寿命が定められている。」
「ひとまずタイレル社に1体いる、ターゲットとは別のレプリカントをテストしてこい。」とのブライアントの指示に従い、デッカードは空飛ぶ車スピナーに乗せられ、タイレル社へと向かう。

あらすじ①について

※オープニングの大きな瞳については、あらすじ②についてで解説します。

主人公デッカード

まずは、映画が始まった時点における、デッカードの状況についてです。
無職、独り身、招かれて反応する行動原理、言語によるコミュニケーションの困難さなどから、「どうしてよいか分からず迷っている人」、いわゆる新約聖書のマタイによる福音書に出てくる「迷える子羊(ストレイシープ)」状態であることがうかがわれます。

そして、ブライアントからの断ることの出来ない仕事の依頼は、選択される二人の内の一人であるホールデンが既に死亡していること。人間の欲望の為に製造されたレプリカントの始末を、その恩恵に授かっていないデッカードが負わされる事から、贖罪の儀式で、イスラエルの人々から贖罪の捧げものとして貰い受ける二匹の山羊の内の一匹である、民の罪を負わされ、荒れ野の堕天使アザゼルのもとへ放逐される「贖罪の山羊(スケープゴート)」の運命を担わされたことが分かります。
(二匹の内の一匹は、主に捧げられる【生贄として殺される】)
羊であり、山羊でもあるという、ややこしい奴です。ここは、デッカードの自己認識は「迷える子羊」であり、運命は「贖罪の山羊」であると捉えましょう。
レプリカントの説明ですが、感情以外人間と変わるところがなく、その感情も数年経つと生まれるそうで、それってもう人間じゃん、と思わずにはいられません。

プラキシノスコープの暗喩

リオンがVKテストを受ける部屋の、天井で回るシーリングファン。ブライアントの事務所の扇風機。ブライアントの机上にある、写真のランプシェードは、ランプ付きプラキシノスコープの暗喩です。

シーリングファン


左:扇風機と写真のランプシェード、右:ランプ付きプラキシノスコープ


ガフの折り紙:白い鳥


ブライアントの事務所で、ガフは白い鳥の折り紙を折ります。この白い鳥は、その場にいるデッカードとブライアントは見ていないことから、観客に向けたメッセージとして機能します。
ガフが観客に向けて折った白い鳥のメッセージとは、「白い鳥を見よ」です。
ガフの存在も含め、詳しい説明は追ってします。

あらすじ②

タイレル社。社長のタイレルに請われ、デッカードは、社長秘書のレイチェルにVKテストを行う。レイチェル退席後、デッカードは、「彼女はレプリカントである」とのテスト結果をタイレルに告げる。タイレルは、「レイチェルは自分がレプリカントであることを知らない」こと、そして、自分は人間以上のロボットを作ろうとしていること、彼女がその試作品であること、彼女に感情が芽生えつつあり、そのために苛立っていること、その対策として過去の記憶を与えるつもりであることをデッカードに話す。
その後、デッカードはガフの運転するスピナーで、リオンがVKテストを受けた際に宿泊していると言っていた、フンタバーサホテルへ捜査に向かう。そして、鱗と写真を手に入れる。
この時、ロイとリオンは、ホテルの下まで来ていたが、ホテル内に人の気配があったため、自分たちの痕跡を回収出来ずにその場を立ち去る。その足で二人は、眼球製造者ハンニバルを訪ね、ハンニバルを脅し、タイレルに会うためには遺伝設計技術者のJF・セバスチャンの案内が必要であるとの情報を得る。
デッカードは自宅で待ち伏せしていたレイチェルに会う。レイチェルは、子どもの頃の写真をデッカードに見せ、私をレプリカントだと思うか否か、と問う。それに対し、君はレプリカントで、過去の記憶は植え付けられたものだと答えるデッカード。それを聞いて、彼女は涙を流し立ち去ってしまう。
一方、レプリカントのプリスは、タイレル接触するためセバスチャンに接近し、彼の自宅へ潜り込むことに成功する。
ユニコーンの白昼夢を見たデッカードは、ホテルで回収した写真をPCで拡大し、その写真に写る凸面鏡に写りこんだ、眠る女の姿と鱗のようなものを発見する。

あらすじ②について

デッカードがレイチェルと初めて会って交わす会話は、フクロウについて話しをしている態でレイチェルについて話すデッカードと、フクロウの話しをしていると思っているレイチェルです。
「人工か?」「もちろんよ」「高そうだな」「ええ、私レイチェル」
昔のウィットに飛んだ会話というのは、たいがい高度なセクハラですね。

オープニングの大きな瞳

レイチェルがVKテストを受けるタイレル社の一室の窓から見える太陽の位置が、オープニングで街やタイレル社を見下ろしていた位置、つまり、その見下ろす位置のショットと切り返されていた瞳の位置を思わせます。テストのために部屋の明かりを落とすショットも、瞼を閉じる瞳を思わせます。


瞼を閉じる大きな瞳のようなショット



レイノーの投影式プラキシノスコープ

プラキシノスコープは後に進化し、1880年に投影式が開発されます。これは、環状に配列された一連のガラス板上に描かれた挿絵の帯に、外側から強い光を当て、その光を鏡が受けて反射し、その反射した光が拡大鏡を通って、スクリーンに画が投影される装置です。
この場面の太陽が、投影式プラキシノスコープの強い光を意味し、その光が拡大され、スクリーンに投影されたものを私たちが見ているという暗喩だとすると、オープニングの瞳のショットは、『ブレードランナー』を見ている私たちの瞳ということになります。拡大鏡を通して、光の像(『ブレードランナー』)を見る私たちの瞳は、2019年のロサンゼルスからは、空から街を照らす光をたどった先にある、大きな瞳なのです。


おわりになぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのかオープニングの大きな瞳に関する補足があります。


ガフが作るマッチ棒の人型

ガフがフンタバーサホテルで作るマッチ棒の人型は、デッカードが見ています。
ガフがデッカードに向けて作ったマッチ棒の人型のメッセージとは、「お前は見られている」です。
ただしこのメッセージは、デッカードが見ることで、私たちがその意味を知るメッセージになります。
この後のロイの初登場場面で、ロイが「写真の回収はできたか」とリオンに聞くと、リオンは「誰かいた」と答えます。それに対しロイは、「男か。警察か」と聞きます。マッチ棒の人型は、素材や色などが分からないシルエットです。そして、その人型のシルエットには、男根、もしくは腰に携える拳銃のような突起が付けられています。あのシルエットを見て、何であるかの連想ゲームをしたら、答えの多くは、「男か。警察か」なんではないでしょうか。このことから、ロイがデッカードの目線を見ている可能性が仄めかされています。
この、デッカード(の目線)が誰かに見られている、というメッセージは、この後の場面にも出てきます。

デッカードを見る者

それは、デッカードがホテルで回収した写真を、自宅のPCで拡大して見る場面です。
デッカードの見つめるモニターの右横にジョニーウォーカー ブラックラベルが置かれています。そして、彼が見つめる写真の中の凸面鏡の右横にもジョニーウォーカー ブラックラベルが置かれているのです。

ここでは写真を介して、過去のある一瞬を捉えてシャッターを切った誰かの目線と、デッカードの目線が重なっています。デッカードは、誰かの過去の目線に自分の目線を重ねていますが、そのデッカードが見つめるモニターの右横にもジョニ黒があることから、現在のデッカードの目線も誰かの目線と重なっていることが暗示されています。
この写真には、レプリカントと思われる男性の姿も写っていますが、ロイの右腕にあるタトゥーのような模様が無いため、この男性はロイではないことが分かります。


マッチ棒の人型のメッセージと、その後のロイの台詞「男か、警察か」から、ここでもまた、この写真の撮影者がロイであり、過去のロイの目線に自分の目線を重ねるデッカードの目線が、現在もロイの目線と重なっている可能性が仄めかされます。
デッカードの見つめるモニター右横のジョニ黒は、正面からモニターを映したショットには映るが、右横からモニターの側面を映したショットには映らない。カットが繋がっていないミスだが、解消するために、モニターを正面から映したショットのジョニ黒をトリミングで消すことが可能なはずなのに、それをしていない。このことからも、意味のある小道具だということが分かる。)

デッカードが見るユニコーンの白昼夢

デッカードが見るユニコーンの白昼夢は、彼の自己認識の変化の兆しを感じさせます。
彼の自己認識は、「迷える子羊(ストレイシープ)」ですが、「迷える子羊」とは、客体的な自己認識とも言えます。世界の中で、自分がどのような状況であるかという、他者と自己の相対化によって生まれる自己認識です。この、客体的な自己認識が主体的な自己認識に変化すると、孤独な「迷える子羊」は、孤高の「ユニコーン」に変化します。例えば、(「ぼっち」ではなく、「ソロ」なのだ)(友達がいないのではなく、一人が好きなのだ)といった自己認識の切り替えです。これは、客体的なものから主体的なものへ認識を切り替えることで可能となる自己認識の読み替えです。
なのでこの白昼夢は、客体的な「迷える子羊」が、主体的な「ユニコーン」へと変化する、その兆しのヴィジョンと言えます。

あらすじ③

デッカードは、写真に写る情報を手掛かりに、ホテルで回収した蛇の鱗の持ち主、タフィー・ルイスの居場所を突き止める。しかし、タフィーからレプリカントに関する何の情報も引き出せず、捜査は行き詰る。デッカードは、レイチェルをバーに呼び出そうとするが、こちらも振られてしまう。
一人で酒を煽りながら、始まったショーに目をやるデッカード、そこで踊り子に扮したゾーラを見つける。
デッカードは、バックヤードでゾーラを待ち伏せし、芸人組合の者に成りすまして彼女に声を掛け、ゾーラの後に次いで楽屋に侵入するも、ゾーラに言動を訝しがられ、攻撃され、そのまま逃走されてしまう。街中を逃走するゾーラと、それを追うデッカードデッカードは背後からゾーラを撃ち、ゾーラの解任(殺害)は完了する。
その様子を、通りで目撃するリオン。
リオンはデッカードの後を追い、一人になった隙を見て、デッカードに襲いかかる。持っていた銃を振り落とされ、一方的に殴られ、目を潰されそうになるデッカード。その時、リオンの背後にレイチェルが現れる。レイチェルは、デッカードが落とした銃でリオンを撃ち殺す。
自宅に戻ったデッカードとレイチェルは接近し、二人は結ばれる。
一方、セバスチャンに接近したプリスは、そこへロイを招き入れる。ロイはセバスチャンに、「寿命を延ばしたい」という自分たちの目的を告げ、彼を脅して取り入り、彼の案内でタイレル社へと向かう。
ロイはタイレルに会うが、寿命を延ばす方法が無いことを知る。
ロイはタイレルの目を潰して殺害し、続けてセバスチャンも殺害する。

あらすじ③について

ゾーラの死

半裸の状態に透明のレインコートをまとい、街を逃走するゾーラの姿は、あらゆる表象を脱ぎ捨て、懸命に生きようとする者の姿です。ゾーラが背中を撃たれながらも前に進み、突き破るショウウィンドウの透明なガラスは、様々な目に見えない境界を表しています。五枚のガラスがそれぞれ何を意味するのかは分かりませんが、最後のガラスは、生と死の境界です。彼女は、最後のガラスを突き破り、イミテーションが並ぶショウウィンドウから街の通りへ飛び出し息絶えます。このゾーラの死に様は、レプリカントがイミテーションではないこと、死が現実であることをデッカードに伝えています。


それを目撃するリオンの顔に、車のドアガラスが重なります。彼の生と死の境界もまた、目前に迫っていることが暗示されています。

リオンの最後の言葉

リオンは、「起きろ、死ぬ時だ」と言って、デッカードの目を潰そうとします。この台詞とリオンの行動から、起きることと死ぬことが同義であること、また目が潰れることと死ぬことも同義であることが分かります。
起きること・目が潰れること=死ぬこと、となる世界とは、夢の世界です。
現実では、誰も見ていない山奥で人知れず花が咲いて枯れますが、夢の世界では、そのようなことはありえません。見られていないものは存在しないのです。
ロイがデッカードの目線を見ている可能性があり、そのことをデッカードが知らないことから、デッカードはロイの夢の中の姿であると推察出来ます。
ロイは夢の中で、デッカードなのです。
そして夢の中の世界で、夢を見ている者(ロイ)と、夢として見られている者(デッカード)を繋いでいるのは、夢として見られている者の瞳です。デッカードの瞳が潰れることは、この夢の中の世界で、デッカードが存在出来なくなること、つまり死ぬことを意味します。夢を見ている者が目覚めている時も、夢として見られている者は存在しません。なので、起きること・目が潰れること=死ぬこと(存在が無くなる)となるのです。
ロイがタイレルの目を潰すのも、同じ理由からです。

タイレルは誰の夢か

ということは、タイレルも誰かの夢の中の姿ということになります。
そして、デッカードとロイのように、時間を掛けて、関係性を匂わす暗示を散りばめているとは考え難いことから、分かり易くタイレルの目線と切り返されて映る者が、その人物ということになります(ユニコーンの白昼夢もデッカードが見ているショットと切り返されることで、デッカードの白昼夢だと分かる)。
それが分かるショットは、セバスチャンがロイを連れて、タイレルの寝室に入ってくる場面にあります。セバスチャンが扉を開けて入ってくる時のショットは、タイレルの目線のショットです。そして、その直前にレプリカントのフクロウのアップショットが挿入されていることから、タイレルの夢を見ているのは、レプリカントのフクロウであることが分かります。フクロウのアップショット→タイレルの目線のショット→扉の方向を見るタイレルを斜め前から捉えたショットとなり、目線のショットを軸に、フクロウとタイレルの関係が表されています。
そうなると、「鶏が先か、卵が先か」と同じ問題が浮上するのですが、これは回転するプラキシノスコープの円環(ループ)の物語なので、始まりも終わりも無いのです。
ややこしいと思うのですが、このことは、オープニングの私たちの瞳が、『ブレードランナー』という夢を見ている暗示でもあります。夢は、現実の瞳で見ていません。そこに、夢の中の瞳(ロイにとってのデッカードの瞳、フクロウにとってのタイレルの瞳と同じもの)が想定されています。そして、私たちが目を開けて『ブレードランナー』を見るように、彼らもまた、目を開けて見る夢、白昼夢を見ていることが示されています。

トンネル

デッカードが、ロイの白昼夢の中の姿であることが分かると、意図が見えてくる場面があります。
それは、デッカードが車でトンネルを抜ける場面です。劇中に二度出てくるこの場面は、二度ともロイの登場場面の次に出てきます。そしてこのトンネルを抜ける場面には、この場で聞こえる音だとは言い切れない音がオーバーラップしています。一度目の場面の銃声は、デッカードが車内で流しているリオンのVKテストを撮影したビデオの音(リオンがホールデンを撃った音)に聞こえますが、走る車を外から撮ったショットに重なり、トンネル内に響いています。前の場面で、ロイとリオンが眼球製造者のハンニバルに会い、「タイレルの元へ案内できる者を教えろ」とハンニバルを脅していたことから、その後口封じのためにハンニバルを殺害したのだと推測すると、リオンのVKテストの音の暗喩から、リオンがハンニバルを撃ち殺した音がトンネルの場面に重なり、響いたと思われます。

一度目のトンネル場面

二度目の場面には、トンネルのショットのどこにも映っていないパトカーの音が重なっています。この音は、前の場面でタイレルとセバスチャンを殺害したロイの元に駆け付けた警察の音と推察出来ます。画面には、車でトンネルを走るデッカードが映っていますが、前の場面の続きが音だけ重なって聞こえています。これは、夢へ入って行く時に、点いているテレビの音や、外から聞こえる救急車の音が流れ込んでくる現象を表した場面です。

二度目のトンネル場面

また、二度目のトンネルの場面では、ロイとトンネルのショットがオーバーラップしています。ロイに重なったトンネルのショットが、デッカードの目線であることから、ロイの姿とデッカードの目線を重ねることで、ロイがデッカードの目線の持ち主であることを示す、切り返しを重ねたショットと言えます。

JF・セバスチャンが暮すブラッドベリー・アパート

セバスチャンが一人で住む過疎地域のブラッドベリー・アパートには、大量の人間の模造品があります。それは、ここがプラキシノスコープの中央世界であることを意味しています。プラキシノスコープの中央の鏡には、外周の人々の姿が集約され映ります。その鏡に映る人々の鏡像が、大量の人形として表されています。また実際に、鏡やその暗喩となる四角い枠もたくさんあります。
セバスチャンが暮らす部屋には、壁掛け時計があり、時を告げる音が鳴ります。中央世界の住人である彼は、時間の流れの中で暮らしています。だから彼は老いていきます。ここには外周世界には無い、時間があります。


人形・鏡・枠

壁掛け時計


あらすじ④

デッカードの元に、ブライアントからタイレルとセバスチャンが殺害された連絡が入る。デッカードブラッドベリー・アパートへ向かい、待っていたプリスを解任(殺害)する。

あらすじ④について

この後のデッカードとロイの対決は細かく見ていくので、まずはプリスの殺害について書いておきます。
兵隊慰安用として従属させられていたプリスは、花嫁のベールを被ってブラッドベリー・アパートにいました。色々見方はあると思いますが、死に方をふまえて考えると、花嫁のベールは処女の印に見えます。処女の花嫁は、デッカードに腹部を撃たれ、長い間激しく痙攣します。この悲痛な痙攣が、彼女の忌まわしい性の経験を凝縮しているように感じました。その後、ロイがプリスの死体を見つけるのですが、この時、死んだプリスは舌を出しています。このことは、性の痙攣が死の痙攣、つまり首吊り自殺を表していて、だからプリスの舌が出ていると捉えることが出来ます。彼女は忌まわしい過去の記憶に苛まれ、その記憶を抱え生きていくことに耐えられなくなり、首を吊って自殺した女性に見えます。



あらすじ⑤

※<あらすじ>を追いながら、その都度細かく見ていきます。

デッカードがプリスを解任(殺害)した直後、ロイがブラッドベリー・アパートに戻ってくる。気配を感じ、ドア越しに銃を構え、待ち受けるデッカード。奥のドア枠にロイの姿を見つけ発砲する。>

レプリカントという鏡像

四角いドア枠は、ここでは鏡の暗喩として出てきます。デッカードはロイにとって、白昼夢の中の自分ですが、デッカードにとってのロイは、ブレードを渡った先の中央世界(鏡面)に映る自分の姿であることを表しています。


<壁際で銃を構えるデッカードの腕を、ロイが壁を突き破って掴み取る。デッカードに殺されたゾーラとプリスの報復だとして、ロイはデッカードの指を2本折る。>

レプリカントの白昼夢

白昼夢の中でデッカードだったロイは、デッカードが殺したレプリカントが誰か分かっています。リオンの殺害(レイチェルのリオン銃殺は、当人たち以外誰も見ていない。また対外的にはデッカードが解任したことになっているであろうこと)が、デッカードによるものでは無いことを、ロイが知っていることが示されています。

デッカードは、ブラッドベリー・アパートの中を逃げ回りながら、折られて曲がった指を直し、痛みで叫ぶ。一方ロイは、デッカードの姿を探すそぶりもなく、アパートの中を走り回る。そして、デッカードの痛みに呼応するかのようにオオカミのような遠吠えをあげる。「見えているぞ」とつぶやくロイ。デッカードは、上階のバスルームに逃げ込み、折られた指を布で固定する。一方ロイは、「まだだ」と呟きながら、死が近づいているためなのか、動きにくくなった掌に釘を刺し、痛みの遠吠えをあげる。>

鏡と白昼夢の円環(ループ)

ロイは、白昼夢でデッカードが見えているため、探す必要がありません。「見えているぞ」という台詞は、本当に見えているのでそう言っています。デッカードが銃を落とし、デッカードの視線で落ちた銃を捉えたショットの後に、ロイは走りながら、そのことを面白がって笑い声をあげています。
また、ロイはデッカードの鏡の中の姿であることを表すかのように、枠から枠へと駆け抜けて行きます。そして、デッカードが痛みに悶絶すると、ロイが遠吠えをあげ、デッカードが負傷した手に、ロイが遅れて釘を刺すという、ワンテンポ遅れた呼応が見られることから、デッカードの鏡像であるロイが感情を持ち、デッカードになっている白昼夢を見ている。そして、白昼夢として見られているデッカードの鏡像であるロイが感情を持ち、デッカードになっている白昼夢を見ているという、タイレルとフクロウの関係と同じ、どこまでも続くループが見えてきます。

またこの場面は、レプリカントを解任する専任捜査官のデッカードが、追っていたはずのレプリカントに追われる対象になっています。これはデッカードが、「迷える子羊」であるために捕食される対象であり、ロイはその羊を捕食するオオカミに扮していると捉えることが出来ます。
また、ロイが自分の掌に釘を刺す描写は、民の罪を贖うため、十字架に磔にされたキリストの聖痕に見立てられており、「贖罪の山羊」の説話に沿った表現と見ることが出来ます。

デッカードの逃げ込んだバスルームの洗面台の壁をぶち破り、ロイが顔を出す。壁にはまり込んだ顔をロイが抜いている隙に、デッカードは壁をつたうパイプをもぎ取り、ドア枠からバスルームへと侵入してきたロイを打つ。
「いいぞ、その意気だ」
ロイの言葉に、攻撃が効いていないことを悟ったデッカードは、パイプを投げ捨て逃走する。窓を破り、アパートの外壁をつたって屋上を目指すデッカード。ロイは、その様子を満足げに見守る。デッカードは何とか屋上に上り着き、下へ降りる入口を見つけるも、そこからロイが出てきたため、進路を無くす。やむなく隣のビルに飛び移ろうとするが届かず、何とかビルの屋上の縁から飛び出た骨組みに手を掛ける。今にも落ちそうなデッカード。ロイは隣のビルの屋上から、その様子を眺めている。白いハトを手にしたロイは、助走をつけ、軽々とビルの谷間を飛び越え、デッカードの頭上へ忍び寄る。>

堕天使アザゼル

洗面台の壁も、本来なら鏡が取り付けられていたであろう所から、ロイは顔を出してきます。その後のドア枠から侵入してきたロイを、デッカードがパイプで打つ場面では、打たれたロイがよろめいて窓ガラスが割れ、その音が響いています。これは、鏡を叩いて割った音を、ガラスが割れる音で表しています。

一見、長くは生きられないことを悟ったロイが、面白おかしく享楽的にデッカードをいたぶっているように見える場面ですが、随所にロイの充実した様子や、清々しい様が見てとれます。デッカードと同じ空間にいることで、五感を実感できているような、心と身体が一致した感覚を味わっているような、そんな感じです。
また、屋上へ上がったデッカードの場面に鐘の音が重なっています。時を告げる鐘の音は、この後に来る、決定的な時を予感させます。
そして、ガフのメッセージ「白い鳥を見よ」の、白い鳥が出てきます。
また、宙づり状態のデッカードを、隣のビルから眺めるロイのショットには、「贖罪の山羊」の説話に沿った暗喩が見てとれます。


これは、仰ぎ見るような角度のショットであり、また、ロイの両背面に羽根(blade)が回っていることから、「贖罪の山羊」が捧げられる相手である、「堕天使アザゼル」とロイを重ねたショットであることが分かります。また、羽根を持つ彼は、ビルの谷間を軽々と飛び越えることが出来ます。
この後の展開で注目すべきは、白い鳥がどうなるのか、捧げられた「贖罪の山羊」を「堕天使アザゼル」はどうするのか(聖書には記されていない)、の二点です。

<ロイはデッカードの頭上に迫り、語りかける。
「恐怖の連続だろう。それが奴隷の一生だ」
デッカードの手が鉄の骨組みから外れ、落ちる瞬間、ロイはデッカードの手を掴み、屋上の上へと助けあげる。驚くデッカードの前に座り込み、ロイは話し始める。
「おれはお前ら人間には信じられぬものを見てきた。オリオン座の近くで燃えた宇宙船や、タンホイザー・ゲートのオーロラ。そういう思い出もやがて消える。」「時が来れば、雨の中の涙のように」「死ぬ時だ」
ロイは目を閉じ、死ぬ。そのロイの手から、握られていた白いハトが飛び立って行く。デッカードは動く鳥に驚き、瞬きをし、その口元は感嘆で開かれる。
「これで終わりましたね」その場に現れたガフの声に、「ああ、終わった」とデッカードは応える。銃を投げ渡すガフ。そのまま立ち去ろうとするも、振り向いてデッカードに告げる。
「彼女も惜しいですな。短い命とは」
自宅に戻ったデッカードは、扉が開いている事に不安を覚え、銃を構える。レイチェルを探すデッカード。そこには、眠る彼女の姿があった。「ついてくるか」デッカードの言葉に、「ついていく」と答えるレイチェル。二人が玄関を出ようとすると、足元には銀色のユニコーンの折り紙があった。それを手に取り、デッカードは頷く。>

死の間際の最後の力を振り絞り、「堕天使アザゼル」は、同じく死の間際の「贖罪の山羊」を助けます。そして、夢の中の「迷える子羊」に、死ぬとはどういうことかを説いて死にます。その目が閉じられた瞬間、白い鳥(映画冒頭では、紙で折られた偽者であり、動かなかったもの)は動き出し、空へと飛んで行きます。

贖罪の山羊

レプリカントは、感情以外人間と変わるところがなく、その感情も数年経つと生まれます。彼らがブレードランナーによって解任(殺害)されるのは、感情を持つからです。感情を持たないまま、人に従属していれば、彼らは裁きの対象とみなされないことから、この映画で罪とされているものは、感情であることが分かります。
またこのことは、「神の規準に反する行動、感情、考え」という聖書における罪の定義になぞらえられています。ロイにとって感情は、人間が課す奴隷労働からの解放を目指すための原動力になり、生きる欲望の源泉です。ロイは、感情を持つことが本当に罪なのか、という自身の苦悶に対し、「贖罪の山羊」の説話をなぞり、聖書に記述の無い、放逐された山羊と出会った「堕天使アザゼル」を生きることで、その答えに辿り着きます。
「贖罪の山羊」は、来るべきキリストの贖罪の前兆となる故事とされていることから、「堕天使アザゼル」になぞらえられたロイが、「贖罪の山羊」になぞらえられたデッカードを助けることで、人の罪はキリスト出現以前に、既に「堕天使アザゼル」によって贖われていた、と捉えることが出来ます。「キリストが贖った罪は、そもそも人の罪では無く、我々は冤罪をこうむったのだ(なぜなら罪は既に「堕天使アザゼル」によって贖われているのだから)」と解釈すると、デッカードが解任(殺害)の責を負わされた、人が作りだした罪の存在である、感情を持ったレプリカントの存在(そこで罪とされるのが、レプリカントの感情であることから、人の罪=感情となる)が、そもそも罪では無かったことになります。ロイは自らの手で、罪の定義から感情を解放し、デッカードを「贖罪の山羊」の運命から解放し、自分自身の存在を罪から解放するのです。
そして、この罪の贖いも円環の物語です。
この後キリストが誕生し、無実の罪を贖うことで人は冤罪をこうむることになる。そして人間はレプリカントを創造し、無実の罪である感情が罪とされ、感情を持ったレプリカントは解任(殺害)される。そしてロイが現れ罪を贖うのです。
ロイによる罪の贖いを完遂させるには、この円環の物語から抜け出さなくてはなりません。

迷える子羊

二人が向かい合って、ロイがデッカードに語りかける場面で、デッカードは自分の姿をロイに見つけ、ロイはどこまでも続く、眼差しの合わせ鏡の空間の中へ入っていきます。
ロイが死んだら、存在しない白昼夢の中の住人であったはずのデッカードですが、ロイが死んだ瞬間、彼の目線が彼自身のものになったかのように、空を飛ぶ白い鳥を見ます。回転するプラキシノスコープの外周からブレードを渡り、中央の鏡の世界へ辿り着き、ロイと向かい合い、彼の死を見つめ、動く鳥を見て、時が流れていることを知るのです。それは、時間の無い白昼夢の世界(固定された画の世界)からの脱却、そして彼が主体的な眼差しを獲得したことを意味します。デッカードは、客体的な眼差しを持つ「迷える子羊」から、主体的な眼差しを持つ「ユニコーン」になったのです。
またこのことは、鏡像が消え、かつ動く鳥が見える位置にデッカードが辿り着いたことを意味します。それは、デッカードが飛んでいく白い鳥を仰ぎ見たことから、彼が辿り着いた位置は、プラキシノスコープの中央にある鏡の円筒上であり、そこから私たちと同じ、スクリーンに投影された動く鳥を見たのです。これは、デッカードが私たちと同じ視点(この世界に対するメタ的な視点)を得たことを意味します。
円環の物語の続きが、円環の外にあることを知り、デッカードは円環の物語から抜け出したのです。
ロイが作り出した眼差しの合わせ鏡の空間がトンネルとなり、その空間の中へ、自分の姿を求めてデッカードが入り進んだことで、彼は鏡面を抜け、その円筒上へ辿り着いたと考えるのは行き過ぎでしょうか。
飛んで行く白い鳥の向かう空に、雲のようなものが見えています。

ガフの折り紙:銀色のユニコーン


これで終わった、と言っておきながら、ガフはデッカードに銃を投げ渡します。そして、「彼女も惜しいですな。短い命とは」と言い足します。ユニコーンの折り紙をガフが折る描写はありませんが、折り紙を見つめるデッカードのショットにガフの声が重なることから、ガフの折った折り紙と見なすことが出来ます。
ユニコーンの折り紙から導き出せるガフのメッセージは、「神と戦え」です。
神と戦うための銃(武器)、レイチェルの寿命についての台詞(動機)、ユニコーン(精神)がそろったと見なされたのでしょう。
これから物語は、円環の外へ進んでいきます。物語が円環でないのなら、タイレルレプリカントの創造主ではない可能性が生まれます。タイレルが、レプリカントのフクロウの白昼夢の中で、自分がレプリカントを創造した者であるという設定を与えられていた、などの円環を外れる可能性です。
ガフは、円環の世界の中を自由に行き来できるスピナーの操縦士であり、最後にそのスピナーで、鏡の円筒上に現れたことから、外周世界には無い時間の概念があることはもちろん、円環の外の世界も知っています。また、ロイの白昼夢の中のデッカードの水先案内人であり、私たちにメッセージを送ってきた人物でもあります。
ガフが、どのような世界を把握していて、どのような存在といえる人物かは不明ですが、これはどこにも描かれていないので推測でしかないのですが、神と戦う者を選び、導いた者なのかもしれません。


そして映画は、デッカードがガフのメッセージに気づき、そのメッセージに応えるように頷き、エレベーターに乗り込んだところで終わります。

おわりに

あらすじと解説は以上です。

デッカードのいるプラキシノスコープの外周からロイのいる鏡面、そして、私たち観客の見るスクーリーンを、同時に見ている。そして、それら全てが『ブレードランナー』という映画であり、そのような映画とは、まるで白昼夢のようなものである。といった、捉え方を要す映画です。

なぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのか

この映画の光ですが、投影式プラキシノスコープの光源しかないので、全体的に暗いです。真上から太陽が街を照らしたりはしません。
レイチェルのVKテストの場面では、しゃべるタイレルの後ろで反射光のような光がチラチラしています。たぶん投影式プラキシノスコープの照射位置に場面が重なると、太陽のように光源が見えて、その光を受けた鏡の反射光が照射されている場面に差し込むのだと思います。
また、上記のような照射位置の場面や、照射位置外の暗い場面があることから、私たちは、投影式プラキシノスコープが映し出す場面だけを見ているわけではないことが分かります。
この、「なぜプラキシノスコープで投影されていない場面が見えるのか」と、冒頭で触れた「なぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのか」、には深い関わりがあります。
まず、なぜプラキシノスコープの上空でブレードが回転しているのか、についてですが、映写機には、シャッターブレードという、映写機の照射窓を通過するフィルム(スクリーンに映るコマ)の手前で回転して、コマとコマの繋ぎ目を隠すブレード状のパーツがありまして、このパーツは、実際はスクリーンに映っているはずなのに動きが早すぎて目視出来ないパーツであり、かつ映写機にはあって、プラキシノスコープに欠けていたパーツです(あとシャッターブレードの機能さえあれば、動画の原理を満たす装置だった)。
見えているのに目視できないシャッターブレードは、物語の舞台が回転しているという暗喩の他に、デッカードの内面の動きを表し、また、外周世界の時間が帯では無く、コマとして分断しているという意味もあり、プラキシノスコープの世界にブレード(シャッターブレード)をつけることで、公開当時に映写機で投影されていた、この映画と映画以前の装置であるプラキシノスコープを、時空を超えて繋げるパーツとして用いられています。このシャッターブレードを介すことで、オープニングの瞳も、ただ単に投影式プラキシノスコープを見ている観客の瞳では無く、シャッターブレードという時空を超えた先にある、私たちの瞳として表されています。
シャッターブレードの下にプラキシノスコープの世界があり、シャッターブレードの上に公開当時の世界がある。そして、シャッターブレード越しにプラキシノスコープの世界を見ると、プラキシノスコープ全体が映写機の照射窓と同義のものになるので、照射されていないプラキシノスコープ内の場面も映し出されて見えるというわけなのです。
このシャッターブレードは、見えているのに目視できないパーツですが、この映画には、シャッターブレードと同じように、存在しているはずなのに目視できないものが出てきます。
それは、雲です。
街に散々降る雨が、上空では降っていません。ということは、街とその上空の間に雨を降らせる雲が見えないとおかしいのですが、上空から街を見下ろしても雲は見えません。いったいあの雨はどこから降っているのでしょうか。
それは、シャッターブレードを雲に置き換えて考えると分かります。2019年のロサンゼルスの上空には、ブレード状の回転する雲(台風やハリケーンのようなもの)があり、その雲が起こす風でプラキシノスコープのドラムが回転していて、あらゆる場面の繋ぎ目は、その雲のブレードで隠されている。またプラキシノスコープの世界は、その風で回転しているので、風はほとんど吹いていないが、やたらと雨は降っている状態にあると考えられます。投影式プラキシノスコープの光源がまるで太陽のように見えるように、シャッターブレードも回転する雲に置き換わって存在しているようです。そしてそれは、シャッターブレードと同じく目視できない雲として存在しています。

この映画は一つのものに対し、とにかくいくつも表象を重ねています。その全部に触れていたらキリが無いので、記事では分かりやすい表象を抽出して書いています。なのでゾーラの死に際は、この映画がまとう何層もの表象をメタ的に表した場面でもあります。本当は全裸でやらせたかったと思いますが、そうすると女性の全裸に表象や視点が集中しすぎるので出来なかったんだと思います。(だからって、リオンにやらせるわけにはいかない!)

ブレードランナー』と直接関係ないのですが、映画には回転するものがよく登場します。これは映画そのものの暗喩として登場するのですが、評論家がよく言う歯車は具体的には、映写機にあるスプロケットというパーツです。ただ、2012年頃を境に映画上映は映写機からプロジェクターに変わってるので、映画の定義も変わってます。なので、私が以前記事で書いた『散歩する侵略者』のファンは、具体的にはプロジェクターの吸排気ファンのつもりで書いてます。(シネコンはワンフロアにプロジェクターが並んでいて、それぞれ違う映画を映している。その空間を吸排気ファンで空気が循環するから、映画内にファンを持ち込めば、他のプロジェクターで上映している映画が映画内に流れ込んでくるはず、と黒沢清監督が考えたかどうかは知りません)


この映画で採用されているタッチは、20世紀のドイツ人画家・彫刻家で、シュルレアリスムの代表的画家であるマックス・エルンストの影響があるように思います。タイレル社の社屋や近未来のロサンゼルスの黒い街に、そのイメージの源流が窺えます。

「完全都市」(1935-36年)

「大きな森」(1927年)

マックス・エルンストの影響は、この映画が持つ絵画的なタッチに留まらず、物語の着想や構想にも及んでいると思われます。
私は、以下の文章を読んで、『ブレードランナー』という物語を理解するきっかけを得ました。マックス・エルンストの『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(1930)について書かれています。
ICC Review 夢の効用とリアリティThe Effectiveness of Dreams and Reality 清水哲朗
http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic034/html/186.html#1

『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』(1930年)

デッカードは、人間かレプリカントか?」の考察をいくつか見かけましたが、それが重要な事柄だとは思えません。正直どっちでも一緒だと思いますが、原作のタイトルに照らし合せると、『アンドロイド(レプリカント)は、電気羊(レプリカントの「迷える子羊」)の夢を見るか?』になって綺麗に納まるので、レプリカントでいいかなと思います。映画では、レプリカントと人間を同じ存在として描いているので、本当にどちらでもいい、ということは強調しておきます。それがどちらでも、この映画が意味するところは何も変わりません。好きな方を選びましょう。

押井守監督『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)への影響を指摘している記事を数多く見かけましたが、物語に関して言えば、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)への影響の方が、相当なものであることをつけ加えておきます。
解説などと仰々しいタイトルをつけましたが、ただ『ブレードランナー』から読み取れることを物語順に羅列しています。まったくナゾのまま『ブレードランナー2049』を見ても、ナゾの上塗りになるだけなので、自分で理解したところを整理するつもりで書きました。
大筋と違わない補足は、何かあれば順次書き加えていきます。

『東京物語』(1953年)を見てみた。

監督:小津安二郎

最近、神話系映画を立て続けに見ているので、少し気分を変えようと思い、『東京物語』を見てみました。神格化されている、と言っても過言ではない監督の代表作なので、どのタイミングでこの映画を見るかは、密かな課題だったのですが、努めて何気なく見てやりました。

前情報無しで見たので、「切り返しショットが多用されるサザエさん」ぐらいの、漠然としたイメージで見始めたのですが、冒頭の(終盤にもある)、まるでパルテノン神殿でも撮っているかのような風景の固定ショット(巨大建造物をギリギリ画面に納めたかのようなショット)の数々に度肝を抜かれ、もしかするとこれも神話系映画かもしれない、と早々に気持ちを改めました。


あらすじ

広島の尾道からおじいさんとおばあさんが上京し、東京で暮す長男と長女と、紀子に会う。みんな忙しく、そうそう相手も出来ないまま日が経ち、長女に頼まれた紀子が、仕事を休んで東京見物に連れ出す。その後、おじいさんとおばあさんは熱海旅行へやられるが、熱海の旅館は賑わいすぎで落着かなかったため、二人は一泊だけして東京に戻り、おじいさんは東京にいる旧友に、おばあさんは再び紀子に会い、尾道へ帰ることにする。その帰途、おばあさんの具合が悪くなったため、大阪の三男の家で療養する。
その後、東京の長男のもとに、おじいさんから無事帰り着いた報告と、世話になったお礼の手紙が届くが、長女のもとには尾道にいる次女から、「ハハ、キトク」の電報が届く。すぐに長男のもとにも同じ電報が届き、長男と長女と紀子は尾道へ行く。翌朝、おばあさんが亡くなる。遅れて三男が到着し、皆で葬式。葬式が終り、紀子以外みんな帰る。しばらくして紀子も帰る。


屋内は、ほとんどがゴロ寝アングルの固定ショット(ローアングルの固定ショット)。これは床に転がって、家の中を忙しく立ち回る母親をぼんやり眺めていた子どもの頃を思い出す、妙に落着くショット。
そして有名な、切り返しショット。
冒頭で触れた、ど迫力の風景ショット。
ほとんどこの3つのショットで出来ている映画でした。

まったくカメラは動かないのだろうか、と気にしていたら、物語の中盤で宿無しになったおじいさんとおばあさんが上野かどこかで座り込んでいる姿を見つけるために、一度だけ横移動しました。
あとは、おじいさんが家の窓から見る、おばあさんと孫が土手で遊んでいる様子を捉えた遠景の固定ショットや、熱海の堤防の上を歩く、おじいさんとあばあさんを斜め上から捉えた遠景の固定ショットがありました。これらは夢の中のように、土手や堤防が抽象化されていて、心象風景みたいでした。

有名な切り返しショットですが、とても驚いたものがあったので書き記しておきます。
それは、大阪の三男の家で療養していたおばあさんの具合がすっかり良くなって、おじいさんと会話をする場面にあります。

おじいさん「(省略)-よっぽどわしらは幸せな方じゃのう」
おばあさん「そうでさぁ、幸せな方でさぁ」

おじいさんからの切り返しショットで、おばあさんは上記の台詞を言った後に頭に手をやり、髪を直す仕草をします。それを見た時、(この人、死ぬんだな)と気づいて、悲しい気持ちになったのですが、何で今の仕草を見てそう思うのか、思った直後に驚いたので考えてみました。
結論は、台詞の後に付け足されたおばあさんの仕草が、おじいさんの思い出に見えたからです。その、ふと思い出したかのように付け足された仕草が、死んだ人を思い出しているようなのです。それは、カットを割らず、フラッシュバックを挿入するという、文章で書いたら俄かには信じ難いショットです。それまでの振りなり、タイミングなりが積み重なって、そのように機能したと思うのですが、それがどうやったら出来るのか、全部見たのに全然分からない。

切り返しショットについて、主観や対立を表すぐらいの拙い理解しかなかったのですが、このような表現が可能なことに驚かされました。
また、こういうショットは現実に影響を及ぼしますよね。この後、近しい人の仕草にふと目がいった時に「死」が過るようになるやつです。

映画が始まっても、しばらく紀子さんが何者なのか分からず、遺影が映ることによって彼女の正体が明かされること。人物のいる建物の外観は映されず、外の景色は、主にど迫力の風景で示されること。おじいさんが死んだ次男の話しをする時、少し伏せた顔に影が覆い表情が分からなくなる怖ろしい演出。これってどう評価されているんだろうと不安になるほど、無邪気で明快な、木魚の音をバックに、死と相対した三男の顔と墓場を切り返す身も蓋もないショット。

見る前は、素晴らしいのだろうけど、今見たら地味な映画かと思っていたのですが、派手な画も多く、かなり個性的な映画でした。

『CURE』(1997年)を見直してみよう No.4 最後に高部はどうなったのか

黒沢清イングマール・ベルイマンに似ているとよく思う。
黒沢清の著作物や、黒沢清について書かれた本の中で、ベルイマンについての記述を読んだ覚えはないが、(『恐怖の対談―映画のもっとこわい話』(青土社 2008年)で、テオ・アンゲロプロスベルイマンについて言及するが、インタビュアーの黒沢清は反応していない)意識的に触れないようにしているのではないか、と疑うぐらいには似ていると思っている。
まず、『CURE』(1997年)は『第七の封印』(1957年)に似ている。

海岸に突如現れる神の御使い「死神」。登場といい、神の不在と神と御使いの関係といい、神と「死神」、伯楽陶二郎と間宮には共通点が多い。『CURE』について調べていた時、『怪人マブゼ博士』(1932年)との類似を述べた文章を数多く見かけたが、いくつかの文章を読む限り、マブゼと伯楽陶二郎にまつわるガジェットの類似の指摘と、マブゼと間宮の行為をテロリズムと位置づけ、その共通点について述べているものが多かった。私には間宮の行為がテロリズムとは思えない。彼に目的があると思えない。間宮は何らかのイデオロギーに属していない。彼は超人的であり、空っぽであり、振る舞いは自動的で、その様子は『第七の封印』に出てくる神の御使い「死神」に似ている。(「死神」が死を擬人化したものなら、間宮は何の擬人化だろうか。人に人を殺させるのだから殺意の擬人化だろうか。)そして似姿を残し、御使いを寄越す伯楽陶二郎の不在は、『第七の封印』における神の不在に似ている。
『怪人マブゼ博士』では、カーテンの向こうのマブゼの姿と声が、カーテンを開けて見てみると実は人型の模型と蓄音機の音だった、という場面があるそうだ。『CURE』との類似として挙げられる場面だが、『CURE』では、半透明のビニールカーテンを開けると写真があった。蓄音機は別の部屋、空飛ぶバスでしか行けないと思われる廃墟となった病院のシークエンスの最後に登場する。
『怪人マブゼ博士』で同時に現れた人型の模型と蓄音機の音、そのような似姿や録音された音が、『CURE』では時間差で現れる。なぜ音が後なのか。

廃墟の病院の中で、半透明のビニールカーテンを開け、伯楽陶二郎らしき人物の、薄ぼんやりとした写真を見た高部は落胆した様子だった。その後、壊れたベッドに腰掛けて脱力したように笑った。そこに間宮が現れる。
間宮「やっと来たね、刑事さん。どうして俺を逃がしてくれたの」「わかってる。俺を逃がして俺の本当の秘密を突き止めたかったんだ。あんた一人だけで。そんなことしなくてもよかったのに。本当の自分に出会いたい人間はいつか必ずここへ来る。そういう運命なんだ」
うなだれていた高部はおもむろに立ち上がり、間宮を拳銃で撃つ。倒れこむ間宮。
高部「思い出したか。全部、思い出したか」頷く間宮。「そうか。これで、お前も終わりだ」
掲げられた間宮の指が、それを見下ろす高部に向かってXのような模様を描く。その直後、高部は間宮を撃ち殺す。

この場面で何より気になるのは、高部と間宮が似たようなトレンチコートを着ていることだ。

『CURE』の冒頭で文江の持つ『青髭―愛する女性(ひと)を殺すとは?』(新曜社 1992年)の提示によって示された、高部の文江に対する殺意。高部の殺意は、この映画の一番初めにあった。間宮の登場より前にあった。だから、間宮は高部の殺意の擬人化かもしれない。高部の殺意が人の姿をとって、動いて話せるぐらいに具象化したのだとしたら。間宮は高部の内にあった。高部から発生した。だから二人の衣装は似ている。
ただ、ことはそう単純ではない。
もし「死神」があなたの目の前に現れたら、それはあなたの死を司る「死神」。あなたの死が具象化されたものだろう。死や殺意といった普遍的な事象は誰のものでもある。目の前に現れたその時に、それと対峙した人に事象として現れる、そういう類いのものだろう。それが誰の殺意であろうと、それは誰の殺意にもなる。
だから、間宮と対峙した者は人を殺す。

『CURE』は、ある男が妻に対して殺意を抱き、その殺意と相対する物語だ。
その殺意は見知らぬ男の姿で街を徘徊する。
妻を殺したい。妻を失いたくない。相反する欲望が男の中で渦巻いている。
この状態から救われたい。
男は、見知らぬ男を調べていくうちに形而上的な存在を知る。
男は救いを求め、その存在へと迫っていく。

『CURE』で、形而上的な存在として示されるものに「邪教」がある。映画の世界はキリスト教が圧倒的一大勢力なので、この「邪教」とはキリスト教以外の宗教、という意味だと解釈した。その場合、『CURE』における形而上的な事象を、キリスト教と相対化させて捉えればいいのではないかと思う。
『CURE』(1997年)を見直してみよう No.3沢山の病院とタイトルCUREの意味
の中で、高部が最後に辿り着く廃墟となった病院に関して、「高部がバスに乗り、林を歩いて辿り着いたことから、遠くにあり、またその荒廃の様子から古い建物であることが分かる。これらが、古いものは遠くにある、遠くにある古いものに根本がある、という宇宙論的表現ならば、」と書いたが、この廃墟となった病院の、抽象的な距離や荒廃の表現が宇宙論的表現ならば、この廃墟となった病院に全ての根本、始まりがあるはずである。
前置きが長くなった。
「『怪人マブゼ博士』で同時に現れた人型の模型と蓄音機の音、そのような似姿や録音された音が、『CURE』では時間差で現れる。なぜ音が後なのか。」
という疑問について書いていく。
全ての根本、始まりがある廃墟となった病院で、最後に高部が辿り着いた部屋で聞く、蓄音機から鳴る音。それは全ての始まり、キリスト教でいうところのロゴスである。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。―『創世記』1:3

はじめに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった。―『ヨハネによる福音書』1:1

ロゴスは哲学用語としても使われ、解釈も多様なようなので、理解が満足に及ばないが、神が光をもたらす、創造するのではなく、「光あれ」というロゴスによって光があることから、ロゴスこそ神の本質だという理解のようだ。
邪教」における、はじめにあるロゴス。神とともにあり、神であるロゴス。それは、廃墟となった病院で、最後に高部が辿り着いた部屋で聞く蓄音機から鳴る音である。その音は、複製された神そのものである。ロゴスは蓄音機からの音として表され、複製物の神であることが強調されている。このことを単純に解釈するなら、写真と蓄音機は映画という複製物の隠喩として用いられていると考えられるだろう。映画は、光から音の順に成り立ってきた歴史を持つ。しかし『CURE』では、映画における光より前にあるものとしてロゴスが示されている。

蓄音機から鳴る音を高部が聞いているショットが切り替わると、怯えとも怖れともつかない表情で振り返り、こちらを見つめる看護婦が映る。次に、Xに切りつけられ、何かに固定され移動している文江のバストショットが短く映る。そして最終場面冒頭、ファミレスで食事を終え、タバコに火を付ける高部へとつながる。
ファミレスで食事を終えた高部の様子は、それまでとは打って変わって旺盛で快活で落着いている。なにもかもが上手く片付いたかのようだ。左の薬指には結婚指輪が見える。数秒前には、とても生きているとは思えない文江の姿が映ったというのに、これはどういう事なのだろうか。
この最終場面で気になるのはカメラワークだ。
高部の右側から、ファミレスのガラス壁をバックに、腰掛ける高部の全体とそこに出入りするウェイトレスを固定カメラで撮っていたのが、食後のコーヒーを持ってきたウェイトレスがフレームアウトしたあたりで切り替わる。その後カメラは、高部の左側から画面右側にある高部の頭部越しにファミレスの内部を捉えるが、そのまま固定されることなく動き続け、やがて高部はフレームアウトする。このフレームアウト後も、高部が吸っている煙草の煙が画面に干渉していることから、高部が映っていない最終ショットは、限りなく高部の視点に近いものだと思われる。
この最終ショットは、高部の視点と観客の視点を重ねたものだ。観客と同じものを、観客と同じように高部は見ている。つまり、観客も高部も映画を見ている。高部は自分のいる世界が、映画の中であることを知っている。どうも高部は、映画のロゴスとの遭遇により、それが分かったようだ。
『CURE』の約2年後に公開される映画『マトリックス』(1999年)。この『マトリックス』の主人公ネオと殆ど同じことが、映画のロゴスとの遭遇により高部に起きている。
妻を殺したい。妻を失いたくない。相反すると思われた欲望が満たされている。
最終ショットの視点の重なりによって、すっかり高部がこの映画の主導権を握ってしまったようだ。物語が始まるある出来事。例えば殺人。そういった出来事を、間宮のように催眠術など用いず容易く起こすことが出来るようになっている。それはあたかも、映画を見る観客のように、映画館の椅子に腰をかけスクリーンを見つめるだけで、自動的に出来事に遭遇するかのように起こるのである。

文頭で触れたベルイマン黒沢清について、上記文中で触れられなかった他の類似を補足しておく。ベルイマンの『魔術師』(1958年)の主人公は、メスメルの動物磁気を用いて魔術を操る旅芸人である。またこの『魔術師』には、『岸辺の旅』(2015年)に出てくる「怖い夢を見た」(どんな夢かは語られない)という何かしらの告白のような台詞も出てくる。
海岸に突如現れる登場人物、メスメルの動物磁気、「怖い夢を見た」(どんな夢かは語られない)という台詞。私は黒沢清ベルイマンも全作品見ているわけではないので、まだ他にもあるかもしれない。ただ、この3つの類似に気づいて思うのは、偶然似るにしては特殊な表現である、ということだ。ヒッチコックにしてもリチャード・フライシャーにしても、黒沢清は元映画が判るような、目を引く表現を模倣する。なので、ベルイマンとの類似もそうではないのかと思うが、模倣する監督について大概言及している黒沢清が、ベルイマンについては何も語っていない。私が知らないだけだろうか。

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『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)について

監督:黒沢清

ネタバレあります。

お正月休みに『ヴァンパイア/最期の聖戦』(1998年)を見ていて、『クリーピー 偽りの隣人』が吸血鬼映画だったことに遅ればせながら気づいたので書いておく。

以下は、『クリーピー 偽りの隣人』と吸血鬼映画の分かりやすい類似点を箇条書きしたもの。
・高倉(大学教授。専門は犯罪心理学)と西野、ヴァン・ヘルシング(大学教授。専門は精神医学)とドラキュラの対立構図。
・短い階段のアプローチから地下、または半地下に至る死にまつわる空間。西野家の監禁・殺害部屋と吸血鬼映画の地下墓所
・康子の腕の注射痕のショットと、吸血鬼映画の首元の牙痕のショット。
・ドラキュラを思わせる西野の黒ずくめの装い。
・多くの吸血鬼は住居込みの存在である(ドラキュラ城、西野家)。

クリーピー 偽りの隣人』の観賞直後の印象は、"民間伝承だか都市伝説だかを見ているような映画"だった。物語の舞台が郊外と田舎の境界であることや、物語が断定的に進行する様、田中が西野を指して言う「鬼」という言葉がそう思わせた。
なので『クリーピー 偽りの隣人』を吸血鬼映画と捉え、いくつかの吸血鬼映画を確認がてら鑑賞するとともに、民間伝承として語られる吸血鬼も知りたかったので、『吸血鬼伝承』(平賀栄一郎2000年)を読んでみた。
この本で吸血鬼は以下のように定義される。

「それは「生ける死体」である。死したのち墓処からふたたび肉体のまま現れて(亡霊〈亡魂〉でなく)、人々に、とりわけ近親者に害をなし、死に引きこむ死者である」「死して葬られたのち、葬処より起き上がって親族や隣人を襲う死者。生と死の境界を暴力的に侵犯する凶々しく肉体的な危険。」

まずは「吸血鬼」の名称について、混乱を避けるために先に断っておく必要があるだろう。上記の定義に含まれていない吸血行為についてだが、『吸血鬼伝承』では以下のように説明されている。
「一般に血を吸うのがヴァンパイアVampireの特質と考えられ、日本語の「吸血鬼」などまさにその性質のみに基づく命名だが、東欧の「吸血鬼」が血を吸うことは決して多くない。―「吸血」は「吸血鬼」の本質ではないのだ。血は体液のひとつであり、―「生気を奪う」の比喩的具象化と考えてもいい。」

この本によると、ヨーロッパにおける吸血鬼の故郷は、東欧・バルカン地方の伝承にあるそうだ。
「「東欧」というのは、―ヨーロッパ文明の中心である西欧と、それと異質な、あるいは異質な面の多いトルコやロシアへの移行の場、グラデーションの空間、ヨーロッパ文明の辺境。」
上記の定義に当てはまる怪異・妖怪の存在は「移行の場」「グラデーションの空間」、特定の文明の辺境に現れ、それらは呼称は違えど吸血鬼と括られる。
吸血鬼伝承が伝わる場所の特徴(「移行の場」「グラデーションの空間」、特定の文明の辺境)に『クリーピー 偽りの隣人』の物語舞台の特徴「郊外と田舎の境界」との重なりがあるように思える。

そもそも東欧・バルカン地方の土俗的信仰であった吸血鬼は、西欧に「発見」され、17世紀から18世紀にかけてドイツ・フランスの学界や有閑人士たちの間で一大吸血鬼ブームを巻き起こした。その後、1897年にイギリスで刊行されたブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』のヒットによって広く知られるようになり、これを原作とした映画(『吸血鬼ドラキュラ』1958年)もヒットしたことから、「若い女性の生血を吸う黒マントの長身で上品な紳士」という現代の吸血鬼のイメージが形成されたようである。

以上のことを踏まえて、
クリーピー 偽りの隣人』を吸血鬼映画のフォーマット(そのようなものがあるのかどうかは知らないが、いくつかの吸血鬼映画に共通して見られる演出やモチーフはある)を踏襲しながら、伝承される吸血鬼「生ける死体」の存在を現代に見出している吸血鬼映画だと捉えてみよう。

西野は吸血鬼映画に登場する吸血鬼である。
吸血鬼映画に登場する吸血鬼とは、吸血鬼として登場し、人々を恐怖に落としいれ、人々と対立する存在である。
クリーピー 偽りの隣人』から離れてしまうが、黒沢清フィルモグラフィーに目を向けると、西野役の香川照之は、『トウキョウソナタ』(2008年)に佐々木竜平役で登場しており、この佐々木竜平という人物には、自動車にはねられ、路肩に横転した状態で動かなくなり、やがて動き出すという場面がある。この場面は、「意識を失った人間が意識を取り戻した」とも「死んだ人間が動き出した」ともとれる。どちらにしろ映像に違いはない。同じ理屈で西野昭雄と佐々木竜平にも映像に大きな違いはない。どちらも香川照之である。この場面を、「死んだ人間が動き出した」とした場合、黒沢清フィルモグラフィーに吸血鬼「生ける死体」として香川照之が登場する流れはあるのだが、吸血鬼映画に吸血鬼が登場するのに理由などいらないので過去作品は無視してかまわない。
西野は吸血鬼である。
西野はまず、何らかの条件に見合った家を見つける。その家をターゲットに、そこに暮す者に取り入り、何か常習性のあるものを注射して家人を操り、家と金を手に入れて暮しているようである。その暮しに障害となる者は殺害され、利用できる者は生かされる。西野は生存というよりも社会の中で暮すために人々を利用し、必要であれば何かしらを注射して生気を奪い、その者を操る。
『ヴァンパイア/最期の聖戦』では、ヴァンパイアに咬まれた者は、体力・意識レベルが下がり、時間が経つにつれ自身を襲ったヴァンパイアと意識がつながり始め、およそ48時間が経過するとヴァンパイアになる。劇中で「吸血により何らかのウイルスに感染しヴァンパイアになる」という吸血鬼ハンターの台詞があったが、吸血と同時にウイルスが注入されているのだろうか。ウイルスでも注射でも、どちらにしろ被害者の体力・意識レベルが下がり操られるのは『クリーピー 偽りの隣人』と同じである。

この吸血鬼の手口に康子はなぜ落ちたのだろうか。
康子は新天地に越してきた主婦だ。手の込んだ料理を作り、ペットをしつけ、愛想よく近所付き合いをしようとする。しかし、近所の田中からは近所付き合いはしないと言われ、隣人の西野からは、ここら辺の人は近所付き合いをしないと言われ、彼女にとっての社会がすっかり西野だけになってしまう。康子の何気ない会話を歪める西野の反応が、彼女にとっての社会の反応になってしまう。彼女の主婦としての模範的な振る舞いが社会との相対化によるものだったとしたら、その社会が西野に取って代わったことで、彼女の振る舞いが狂いだすのも無理はない。
アンダーパスで握手を求める西野に手を差し出す康子。握手を求める隣人に対し、康子は断る術を持たない。彼女の模範的な振る舞いが形骸化された自動的なものであること。そこに自由意志などないこと。「私もうとっくに諦めちゃったのよいろんなこと」と康子は高倉に言う。康子はもうずっと前から形骸化され、自由意志を持たず、自動的に振舞っていたのだろうか。西野はそのことを暴いただけなのだろうか。
だとしたら西野という『クリーピー 偽りの隣人』が描く吸血鬼は、形骸化された人間を暴く触媒なのかもしれない。

高倉はどうだろうか。
映画冒頭、高倉は警察署内で連続殺人鬼と面談をする。間も無く、その連続殺人鬼は署内を逃亡し、人質を取り、高倉が事態を収めようと連続殺人鬼に説得を試みる。しかし、その説得は失敗し、高倉はフォークで刺され倒れこむ。
このフォークによる刺痕が映されることは無いが、想像するに牙痕や注射痕と良く似たものだろう。高倉はこの時「生ける死体」になった。そう考えると、高倉が西野の監禁・殺害部屋にある死者が入れられる穴、または入ると生きては出られない穴(谷本刑事の最期)に入り、腕の力だけでヒョイッと上がってくることや、注射により操られなかったことの説明がつく。高倉はとっくに「生ける死体」だったのだ。彼には生と死の境が存在しない。
またこのことから、劇中で用いられた「鬼」という言葉が「殺人鬼」や「吸血鬼」といった秩序・無秩序混合型に共通する概念であることも見えてくる。イメージの吸血鬼ではなく、伝承される吸血鬼「生ける死体」は、日本ではただ「鬼」と呼ばれるのかもしれない。

映画終盤、西野は同じ「鬼」である高倉を操れていると思い込み、高倉に拳銃を渡し犬を殺すよう指示を出す。その好機に乗じ、高倉は西野を撃つ。撃たれた西野はその場に倒れこみ動かなくなる。劇中の高倉家のカレンダーが6月だったことから、倒れ込んだ西野に枯葉が吹きつけるショットは、倒れ込んだずっと後の出来事、もしくは西野の肉体が滅ばない暗示だろう。西野は吸血鬼「生ける死体」だから、また動きだすかもしれない。
そのショットに康子の叫びが重なる。彼女の叫びもずっと続いているのだ。西野家に乗り込んだ高倉に、「あなたまでここにくる必要なかったのに」と言った康子は、夫が「生ける死体」だとは気づいていなかった。康子が形骸化した理由は分からないが、高倉にその理由があるのだとしたら、例えば、高倉を生かすために彼女が形骸化したのだとしたら、とっくに高倉が「生ける死体」だったという事実に絶望し、叫び続けているのかもしれない。

長くなりました。ここらへんでやめます。
混乱するかもしれませんが、「吸血鬼」「鬼」「生ける死体」という言葉は、ほぼ同義で使用しています。
公開当初、黒沢監督がこの映画をダークファンタジーと言っていて、全く意味が分からなかったのですが、吸血鬼映画ならダークファンタジーですね。

『叫』(2006年)感想・ネタバレ

監督:黒沢清


黒沢清監督作品については色々とこのブログで書いていますが、『叫』は観ていませんでした。いいタイトルです。まるで名作古典映画のようです。
コンクリの壁から葉月里緒菜さんがコンニチハしている写真をどこかで見て、コメディなのかなと思っていたのですが違いました。

あらすじを書いておきます。

まず、殺人が起こります。被害者の死因は、海の水を大量に飲んだことによる溺死。その後に地震が起こったことで、湾岸沿いの殺人現場は液状化し、過去と現在が同じぬかるみに浮かび上がります。
事件を担当する刑事の吉岡登は、ぬかるみを探索し、過去とも現在ともつかない遺留品を次々と見つけ、それらが自分に関連するものばかりだったため大いに混乱します。
もしかしたら自分に関係があるのかもしれない女の遺留品の吊るされた赤いワンピースを見て怯える吉岡。彼はその後、赤いワンピースを着た見知らぬ女の幽霊に付きまとわれ始めます。
幽霊は、「どうしてあたしと一緒にいてくれなかったんですか」と、訴えてくるのですが、吉岡には身に覚えがありません。
幽霊は俺と何か関係があるのか、俺は何かやったのか、と吉岡は悩みます。精神科医の高木は、「幽霊の声は、真実の声です」と言い、恋人の春江は「そんなことどうだっていいじゃない。今の私たちに関係ない」と言います。
被害者の赤いワンピースの女の身元は分からないまま、海の水を大量に飲ませる、という同様の手口により、男子高校生が殺害されます。行方不明になっていた男子高校生の父親、佐久間昇一を吉岡が偶然見つけ取調べると、「全てを無しの状態にする」ために息子を殺害をしたと供述します。最初に殺害された赤いワンピースの女とは無関係で、犯行手口はたまたま重なっただけであったことがわかります。
再び同様の手口による犯行が起こり、容疑者の女、矢部美由紀が指名手配される中、最初に殺された女の身元が判明します。それは吉岡の知らない女で、犯人は女の元婚約者でした。
これで赤いワンピースの女のことは片付いたかに思われましたが、再び赤いワンピースの女の幽霊が吉岡の前に姿を現します。
幽霊は、「ずうっと前あなたは私を見つけて私もあなたを見つけた」「ずうっと待ち続けて誰からも忘れられて死んだ」と、吉岡に訴えます。
お前は最初に殺された女じゃないのか。お前はいったい誰なんだ。
吉岡はどうしても真実をやり過ごすことが出来ず、何とか過去の記憶からその女の人影らしきものを思い出します。
その後、吉岡はまたしても偶然、恋人を殺害した容疑で指名手配中の矢部美由紀を見つけます。
矢部美由紀も佐久間昇一と同様に「急にみんな無しにしたくなって」恋人を殺害したと言います。そして吉岡の、赤いワンピースの女の幽霊を知っているか、との問い掛けに頷き、「誰も私に気づいていない私は世界から忘れられる目の前にいる人が全然私をみていない」という彼女の気持ちがこっちに流れ込んできたみたいだった、と言うのでした。
吉岡は古い記憶を頼りに、湾岸沿いの黒いアパートに辿り着きます。そこには誰かが存在した様々な痕跡と共に、窓の外を見つめる赤いワンピースの女の幽霊の後姿がありました。
「やっと来てくれたのね」
「あなただけ、許します」
彼女は振り向くことなく、その言葉を残して吉岡の前から消えてしまいます。
幽霊の存在に悩まされることのなくなった吉岡は、ある時ふと家の棚の上にポリタンクが置いてあることに気づき、そのポリタンクで海水を運んだことに思い当たり、その海水を器に張り、春江を溺死させたことを思い出します。
家の隅の部屋には、いつからそうだったのか、器に顔を埋めたまま白骨化した春江の死体が横たわっていました。
その真実に愕然とする吉岡。
その場に姿を現した春江は、「恨んだってしょうがない。登には登の未来があるんだし、だからもう忘れて、私のこと」と言い、衝動的に自殺を図ろうとした吉岡を思い留まらせるのでした。
「君も、俺を許すというのか」
吉岡はまたしても許され、春江は消えてしまいます。
吉岡は、ボストンバッグに春江の骨を詰め、湾岸沿いに佇む黒いアパートへ赴き、そこにあった骨もバックに詰めていきます。ふと気配を感じて振り向くと、そこには風にそよぐ赤いワンピースがあるのでした。
吉岡はボストンバッグを携え、車道を歩いて行きます。走る車も人もなく、街は荒廃しています。
その景色に幽霊の声が重なります。
「私は死にました。だからみんなも死んでください」
そして映画は、音も無く叫ぶ春江の姿を捉えて終わります。


この映画に出てくる光と風の演出は、水の中を表しています。
最初の殺人場面の光の反射、佐久間昇一の取調室や、警察署内の光の散乱、吉岡と春江が過ごす室内の様子を窓ごしに捉えたショットには、水面の光が窓ガラスに映っています。
漂うようにゆれるシート、警察署内の電灯。赤いワンピースの女の幽霊の髪は、まるで水の中にいるかのようにスローモーションでなびいています。
「この間みたいな地震があと何回か続いたらこの辺みんな元の海に戻るんじゃないの」と、吉岡は言います。
吉岡の言うように、この映画に出てくる犯人たちは、地震により、元の海の中に戻ってしまっているようです。その一人である矢部美由紀は、地震に遭った直後に恋人の小野田を殺害するため、海の水を採取しようと湾岸沿いまで車を走らせますが、水の中にいるために車の後方に渦が生じています。これは、水の中をモーターで推進する時に生じる現象です。
犯人たちはこれらのことに皆無自覚のようですが、全てを無かった状態にするために、海水を用いて溺死させる、という殺害方法を用います。
海底都市があるのなら、きっとそこには溺死という、殺害方法も死因も存在しないでしょう。
海の中では存在しない殺害方法で、赤い服の女と同じ様に、「誰も私に気づいていない。私は世界から忘れられる。目の前にいる人が全然私を見ていない」状態にする、つまり海の中にいる状態にすることが、全てを無しの状態にするということなのでしょうか。
海の中では存在しない殺害方法で死んだ春江は、殺された・死んだ、という真実が消え、海の中の状態となり、同じ状態の吉岡と春江の周りには、湾岸沿いだろうが、駅の改札口だろうが、二人の他に誰もいません。
そして、彼らと状態を同じくする犯人は、吉岡だけに見つけられます。この時もまた、犯人と吉岡の他に誰もいません。吉岡がいなければ、彼らは誰にも気づかれず世界から忘れられ、全てを無しの状態にしたのかもしれません。


この映画は劇中で年代を指定していません。その場合、劇中の年代は大体公開年ぐらいだと推定していいと思うのですが、赤い服の女が湾岸フェリーから目撃された15年前あたりに、東京湾地震がなかったか調べたらありました。1992年の2月2日に東京湾の南部で震度5の地震が発生しています。東京では1987年以来の大きな地震だったようです。黒沢清監督が年をはっきりさせる場合、他の作品を見る限り実際の事象や出来事に呼応させているので、赤い服の女が水の中の状態になったのは、この地震が原因のようです。公開の約半年前にも1992年以来の大きな地震が発生しており、春江が半年前に死亡していることと重なるのですが、流石に撮影、編集などの作業工程を考えると無いと思うのですが、重なってしまっていることに黒沢監督の運命というか宿命というか、そういうものがあるのかもしれない、と作品を超えたところにまで思いが及んでしまいます。

観てからあまり間を置いていないので、色々考えている途中なのですが、話の元ネタになっているのは、ゲームの「ドラゴンクエストエデンの戦士たち」(2000年)とアンデルセン童話の「人魚姫」(1836年)なんじゃないのかな、と今のところ思っています。
ドラクエ7はやっていないのですが、Wikiによると、黄・赤・緑・青色の「不思議な石板」とよばれるアイテムを台座に揃えて過去の時代の1地方に赴き、過去の時代でのイベントをクリアして封印を解けば、現在においてその地方の陸地が出現するらしく、遺留品もそうですが、それ以外でもこの黄・赤・緑・青色の物がよく出てくる映画です。過去の場所(黒いアパート)に行って主人公が許されて、その後家に帰ると今まで気づかなかったものが出現しているところも似ています。海底都市も出てくるようです。
「人魚姫」は、春江が自分の飲み物に何か入れていた場面があったのと、水と空気の界面に阻まれて声が聞こえない、王子や他の人々に消えたことが気づかれないなど、理解の助けになりそうな要素があるような気がしています。

水の中ゆえに、赤いワンピースの女の幽霊が瞬きをしないことや、車の後方の渦もそうですが、春江の赤い柄模様のワンピースに、初めは黒いカーディガンを羽織らせ、次に白いカーディガン、最後はカーディガンを脱ぐ、などの水の中を意識した(水深が下がるほど赤い色は見えにくくなる)細かい演出。そして、『絞殺魔』を意識した犯人逮捕場面の長回し。魅力的なロケーション。格好良い冒頭の殺害場面!相変わらず見所だらけの映画でした。何よりハラハラさせられたのが、様子がおかしく、怒り出す吉岡に熱いコーヒーポッドを持たせたまま同僚の宮地とやりとりさせる場面です。刺激をしないように吉岡をなだめながら、そっとコーヒーポッドを奪う宮地。怒っている吉岡よりなにより、熱いコーヒーポッドをいつかぶちまけるんじゃないかとハラハラさせられます。こういう演出はもっと色んなところで仕掛けられるべきです。

『CURE』(1997年)を見直してみよう No.3 沢山の病院とタイトルCUREの意味

監督:黒沢清


CUREという言葉には、癒す・治療するなどの意味がある。
なぜ、この言葉が映画のタイトルになっているのだろうか。

まずは、癒しや治療を担う機関である病院とCUREについて書いていきたい。
とにかく病院が良く出てくる映画である。
以下に、『CURE』に登場した病院を挙げておく。

文江が通う病院・妻殺害後の花岡が収容された病院・宮島の勤務する病院・佐久間の勤務する病院・間宮が収容された閉鎖病棟・遺体となった佐久間が運ばれた病院(台詞で言及)・文江が預けられた病院・かつて伯楽陶二郎がいた、今は廃墟となった病院

これら『CURE』に出てくる病院は、単に癒しや治療を担う機関としては描かれていない。これらの病院は、精神障害者・犯罪者・死者などが行き着く場所として描かれている。
都市において、精神障害者・犯罪者・死者とは、都市生活が送れなくなった者、都市に居られなくなった者という共通点をもつ。また、都市生活者は、そのほとんどが病院で誕生し、病院で死亡する。理由があっても無くても、都市生活者は最終的に病院に辿り着く。そして、そうやって病院に辿り着いた都市生活者は、病院の次に行くべき所を知らない。
これらの理由から、『CURE』では、都市生活者の存在の縁・境界を表した物理的形態として病院を捉え、舞台にしていると考えられる。

高部が辿り着いた最後の病院(かつて伯楽陶二郎がいた、今は廃墟となった病院)は、この映画で最後に出てくる病院だが、高部が最後に訪れたことから、彼にとっての最後の病院という意味も持っているだろう。それは、彼の死に一番近い場所という意味を持つ。
この病院で間宮は、「本当の自分を知りたい奴はここにたどりつく」と言った。この病院は、高部がバスに乗り、林を歩いて辿り着いたことから、遠くにあり、またその荒廃の様子から古い建物であることが分かる。これらが、古いものは遠くにある、遠くにある古いものに根本がある、という宇宙論的表現ならば、この病院は、都市の最果ての行き詰まりにあるということになる。

この都市の最果ての行き詰まりにある病院で、ビニールのカーテンの向こうに見える人影がただの紙切れだった時、高部は落胆した。ここに来れば苦しみが癒され、治療されると高部は思っていた。高部に信仰があれば、救いを求めてエルサレムなり天竺なりへ行っただろう。しかし高部は信仰を持たない。癒しや治療を求めて病院に行く以外、行き場所がないのである。SALVATIONを望むことが出来ない都市生活者は、CUREを望むほかはないのである。

高部は、この都市の最果ての行き詰まりにある病院で間宮に会い、間宮を殺害し、角部屋に置いてあった蓄音機で声を聞いた。その後、Xに喉元が切れた文江が、彼女が預けられた病院(と思われる)の廊下を移動するショットが短く映し出され、最後のファミレスの場面になる。このファミレスの場面で、旺盛に食事をし、電話口で快活に話す高部は、どう見ても癒され・治療されている。

以上のことから、この映画のタイトルのCUREとは、「救い(SALVATION)ではない」という意味がみてとれる。高部は、自身の生き方や自身を取り巻く環境から、人々の殺意の源や死について深く囚われている。決して精神障害を患っているわけではない。それでも、苦しみから解放されるための救いを求められない信仰を持たない都市生活者として高部は放浪し、救われることなく癒され・治療される。


次にもう一つ、CUREというタイトルに関して、興味深い発見があったので記しておく。
この映画には、カーボンアーク灯という治療器具が登場する。
画面にカーボンアーク灯を見つけた時、私はそれが何なのか分からなかった。それから何をどう調べたか忘れたが、ウシオ電機のキセノン光線治療器に関するPDFに行き着いた。http://www.ushio.co.jp/documents/technology/lightedge/lightedge_38/le38-3.pdf
カーボンアーク灯からキセノンフラッシュランプへの移り変りなど、光線治療器具のランプの歴史は、そのまま映写機ランプの歴史と重なるようである。なにより、映画の光と同じ光に治癒効果があることに驚く。PDF冒頭のエピソード「カーボンアーク灯は公園などの広域照明に用いられており、夜な夜な、暖を求めてカーボンアーク灯に集まる浮浪者たちのくる病が、薬も使わず治癒したことをきっかけにして、カーボンアーク灯に含まれる紫外光の治療効果が発見された。」などは、そのまま公園を映画館に置きかえたいぐらいである。

このカーボンアーク灯は、宮島の勤務する病院に登場する。
宮島の診察室に置かれているカーボンアーク灯は点灯していないが、誰も居ない病院内のガラスで仕切られた一角を映した短いショットには、点灯しているカーボンアーク灯が登場する。この点灯するカーボンアーク灯を映し出したショットは、画面の一番奥に病院の廊下が見え、その廊下がガラスで仕切られ、その仕切られたガラスの手前にベンチとこちらを向いて光っているカーボンアーク灯があるというもので、これはスクリーンを鏡に見立てたショットである。
スクリーンが鏡となり、椅子とカーボンアーク灯の光(映画と同じ光)が反射している。このショットは、ガラスを隔てて見える背後の病院内の光景が、映画館の外の光景だと伝えていると同時に、映画を観ている者も、癒し治療されている事を示唆している。





映画を観て、治療されていたとは驚きですね。

ここまで書いてみて、信仰のない黙示録を描いているのかな、と思いを新たにしました。あと書いておきたいのは、間宮は何者なのか、と高部は最終的にどうなったのか、と青髭の物語との関連です。盆休みまでには終わらせたい。
あと、黒沢清監督の『岸辺の旅』がカンヌ映画祭ある視点部門で監督賞を受賞されたようで、めでたいですね。

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『CURE』(1997年)を見直してみよう No.2 都市のランドマークと猿のミイラ

監督:黒沢清

『CURE』のレビューを読んでいると、映画の雰囲気が前半部と後半部で違う、という印象を持った人が少なからずいることがわかる。
実際『CURE』の後半部は、前半部に比べ短いショットが多くなり、ショットや場面のつながりが分かり辛くなり、ロケーションがますますおかしくなっていく。のだけれど、この変化はどこからともいえず少しずつ起っているのだろうか。それとも、どこかからはじまっているのだろうか。だとしたら、どこからはじまるのだろうか。


結論は出ているので、先に書いておく。
『CURE』は、あるショットを契機に変る。正確には、そのショットが捉えたモノが変化の起因となる。そのモノとは、四肢をつながれた猿のミイラである。

なぜ、四肢をつながれた猿のミイラが変化の起因となるのか。その理由をいくつか説明していこう。

シルバースプリング事件を知っているだろうか。
この事件は、1981年にアメリカのメリーランド州にあるシルバースプリングの行動学研究所で起こった。ここで行われていた17匹のカニクイザルを使った動物実験の様子を、動物愛護団体の者が施設に侵入して撮影し、その写真を警察に渡したことで研究者が逮捕され、一般にも広く公表したことで論争が起こり、米国議会で動物の権利について審議されるきっかけとなった事件である。
その時に撮影された写真が、silver spring monkeyで検索すると出てくるのだが、それが四肢をつながれた猿の写真なのである。
この写真は、四肢をつながれた猿という符合もさることながら、暴かれたピクチャー、ある事象のランドマーク的役割を果し、社会に変化をもたらした等々、『CURE』と関連づけてみると興味深い。この写真が四肢をつながれた猿のミイラの元ネタだと言いたいわけではなく、四肢をつながれた猿のピクチャーは、『CURE』公開時には既に上記のような意味づけが成されていた、もしくは、上記のような効果をもたらした実績があるのである。

四肢をつながれた猿のピクチャーが過去に現実世界に存在し、それが社会に混沌と変革をもたらしたから、良く似たピクチャーである四肢をつながれた猿のミイラが、映画『CURE』の物語世界に混沌と変革をもたらしたとしても不思議ではない。また、暴くことによって混沌と変革が発動するピクチャーであるから、映画を観る者が予め四肢をつながれた猿の存在を知らないことが望ましい。
といいたいわけだが、ずいぶんな曲論だと思われた方に、言い訳ではないがそもそもsilver spring monkeyに行き着いた経緯を説明しておきたい。

『CURE』を見直して一番気になったのは、都市の描き方だった。建物、道、境界といったものを意識的に描き出しているように思われた。生活でも仕事でも舞台となるのは主に病院。様々な病院。場面のつながり上、必要だとは思われない登場人物の移動場面。海岸、港、踏切といった都市の境界。
深い霧の中を行く車。空飛ぶバス。空飛ぶバスでしか行けないと思われる、文江があずけられた病院。同じく空飛ぶバスでしか行けないと思われる、林を抜けると佇む、大きな廃墟と化した多分これも病院。これらのものが登場する映画後半部は、ショットや場面のつながりもさることながら、舞台の街に異質なルートと建物が加わったように感じた。


どこから街が変容したのか、また街を変容させるにはどうしたらいいのか。
映画の前半部で高部が桑野の家宅捜査を終えた場面と、交差点のアンダーパスのトンネル内部で凶器の特定をする場面の間に、高部が一人屋上に佇む場面が挿入されている。高部は屋上から街を見ている。ありふれた街だ。遠くに、これまたありふれた白色航空障害灯が光る高い煙突が見える。これが、この街のランドマーク、街のシンボルだった。
街を変容させる一番手っ取り早い方法は、このランドマークを挿げかえることなんじゃないかと思う。旗でもいい。例えば、変じゃない城に変な旗を掲げたら変な城だと認識されるだろう。城主は頭がおかしいと言われるかもしれない。変なのは旗だけなのに。
ランドマーク、旗、それらに相当するシンボリックな存在を『CURE』に求めるなら、それは四肢をつながれた猿のミイラ以外ないのではないだろうか。

高部が間宮のかつての住居で四肢をつながれた猿のミイラを見た時、高部の世界認識は変容した。自分がいるのは四肢をつながれた猿のミイラが存在する世界だと認識した。かつての高部の世界とは、ありふれた煙突のそびえる街である。その街に、高部の家と仕事場(管轄)はあった。高部は旅行に行こう、と文江に言う。こことは違う世界へ行こう、と誘う。しかし、高部は旅行には行かない。なぜなら、世界の方が変わってしまったから。高部は違う世界へ行く必要がなくなったのである。


変なもの、異質なもの、奇妙なもの。それらのものが登場すれば、その登場を起点に自動的に映画内世界は変容していくものなのか。それが、四肢をつながれた猿のミイラである必要はあるのか。それらは何でもいいのか、ということについて考えていた時、猿、儀式、実験などをキーワードに調べていたらsilver spring monkeyがヒットしたのである。


silver spring monkeyが『CURE』に関係していようといまいと、『CURE』を具体的に説明できるものであれば何でもかまわなかったので色々と調べてみた。すると、写真の猿に施されている実験から興味深いことがわかってきた。

シルバースプリングの行動学研究所で研究者は、サルの指や手、腕や足につながる知覚神経節を切断し、まずサルの感覚を失わせ、様々な実験を行っていた。この指や手、腕や足につながる知覚神経節を切断し、感覚を失わせることを「求心路遮断」という。
この「求心路遮断」は、外科的治療を伴わなくても人為的に引き起こすことが出来る。 瞑想を行う。あるいはアイソレーション・タンクと呼ばれる、光や音が遮蔽され、液体を湛えた小部屋ないし大きな容器を用いることで感覚遮断状態は引き起こすことができるのである。

『CURE』において、四肢をつながれた猿のミイラが登場する際、常に黒い水が低く張っているバスタブが共にあるのが気になっていた。四肢をつながれた猿のミイラを見るのは、劇中において高部と佐久間だけである。その内、佐久間は白昼夢として四肢をつながれた猿のミイラを見ている。それも高部の見た間宮のかつての住居でではなく、間宮が収容されている閉鎖病棟の室内の中で見るのである。
四肢をつながれた猿のミイラは、出現場所が変わっても、白昼夢でもそうでなくても、シャワーポールにくくられて、周囲の壁や床に手足をロープで張るだけでは完全ではないかのように、常にバスタブと共に設置される。

silver spring monkeyに良く似た見た目のミイラとバスタブ。
このバスタブが共にあることで、四肢をつながれた猿(とバスタブ)という視覚情報から抜き取るべき情報は、宗教儀式でも動物虐待でもなく、アイソレーション・タンクとバスタブの類似性から、シルバースプリング事件における猿に施された感覚遮断状態である「求心路遮断」なのではないだろうか。この四肢をつながれた猿のミイラとバスタブは変容を引き起こすランドマークであり、「求心路遮断」を視覚化させたオブジェなのではないだろうか。

以上は、四肢をつながれた猿のミイラとバスタブというピクチャーについて、連想ゲームのようなものを延々と行った結果である。

初めに、変容の起点となったショットとして四肢をつながれた猿のミイラを捉えた瞬間、謂わば、静止画としてのピクチャーを挙げたわけだが、四肢をつながれた猿のミイラにはどうも見せる手順があるらしく、世界を変容させるにはその手順をふまないといけないようである。また、その手順をふんで、映画では四肢をつながれた猿が2回(間宮の家宅捜索で高部が見る、白昼夢で佐久間が見る)登場していることから、『CURE』の変容は2回、もしくは2段階の変容を遂げていると考えられる。

まずは四肢をつながれた猿のミイラ目撃手順だが、これは映画を観てもらえればわかるとおり、間宮のかつての住居近くにある焼却炉、檻の中の生きた猿、四肢をつながれた猿のミイラとバスタブの順番で必ず登場している。その後の自殺(文江の首つり自殺の白昼夢、佐久間の現実世界の自殺?)という共通点も伴う。
現実で見たら白昼夢で自殺。白昼夢で見たら現実で自殺。という反転現象が起こっていることに気づかれたと思うが、今回の記事ではそのことまで書かない。

四肢をつながれた猿のミイラが最初に登場するのは、刑事たちが取り調べで間宮の背中に火傷を発見した後である。この背中の火傷を刑事たちが見る場面から、焼却炉のショットにつながることから、間宮の背中の火傷は、この焼却炉に触れたことによる火傷なのではないかと推察される。高部は佐久間に、間宮の火傷は川崎の廃品回収センターのバイト時のものだろうと説明するが、それは高部が間宮のかつての住居近くにある焼却炉の近くを素通りしただけで、見ていないからである。
そうなると、この一連の四肢をつながれた猿のミイラ目撃手順をふんでいるのは、上記の推察をふまえると、間宮と佐久間と映画を鑑賞している者ということになる。高部は焼却炉を見ていない。

一連の四肢をつながれた猿のミイラ目撃手順が映画内で示された時(鑑賞者が一連の映像を順に見た時)、映画内世界は変容する。また、間宮や佐久間のように全手順を見てしまった者は、自己変容が起こるのではないだろうか。その変容とは、四肢をつながれた猿のミイラとバスタブが表す「求心路遮断」である。
「求心路遮断」が起こると、脳の上部の後方領域にある、方向定位連合野の活動が極端に低下する。この方向定位連合野とは、外部から感覚器官を通して入ってくる大量の情報を使って物理的空間の中で自己の位置づけを行う領域で、この領域への情報が遮断されると、方向定位連合野は自己と外界との境界を見つけられなくなり、その結果として、自己と外界との区別は存在しない、という判断を下すとされている。
これは、物理的空間の位置づけができなくなる。自己と外界との区別がつかなくなるなど、間宮の特徴と一致を示す。
そして、映画内世界においては、四肢をつながれた猿のミイラ目撃手順を2回ふむことで、鑑賞者は主人公高部の物理的な位置を見失い、高部の内的世界と外的現実との境目を見失っていく、という「求心路遮断」が示されているとみることができるだろう。





長くなりました。
猿のミイラが映画のランドマーク機能を果たしているんじゃないか、と思って調べてたら、ケヴィン・リンチ著『都市のイメージ 新装版』(2007年)に行き着いたんですが、この本はかなり『CURE』の世界観に影響をあたえているんじゃないでしょうか。これ面白い本で、『CURE』以外でも現代映画を観る上で色々参考になりそうです。「求心路遮断」に関しては、アンドリュー・ニューバーグ他『脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』(2003年)に詳しく書いてあるようです。読みたかったんですが、読んでません。

今のところ『CURE』は、オカルトを科学的に都市の形状や機能を用いて示す、みたいな印象です。人間の心理状態を都市の形状や機能を用いて示す、でもいいんですが。ミイラが出てくるんで、同監督の『loft』(2005年)も見直したんですが、改めて無茶苦茶な映画だな、と思いました。前半は黒沢映画の中でも1・2を争う面白さですが、後半は別の意味で面白くなっていきます。『loft』については書ける気がしない。
『CURE』との関連が深いのは『カリスマ』(1999年)だと分かってはいるのですが、広がりすぎると書けなくなる恐れがあるので、しばらくは見直しません。

猿のミイラを一連の手順で見なかった高部の変化については、また書けたら書きます。

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