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『CURE』(1997年)を見直してみよう No.4 最後に高部はどうなったのか

黒沢清イングマール・ベルイマンに似ているとよく思う。
黒沢清の著作物や、黒沢清について書かれた本の中で、ベルイマンについての記述を読んだ覚えはないが、(『恐怖の対談―映画のもっとこわい話』(青土社 2008年)で、テオ・アンゲロプロスベルイマンについて言及するが、インタビュアーの黒沢清は反応していない)意識的に触れないようにしているのではないか、と疑うぐらいには似ていると思っている。
まず、『CURE』(1997年)は『第七の封印』(1957年)に似ている。

海岸に突如現れる神の御使い「死神」。登場といい、神の不在と神と御使いの関係といい、神と「死神」、伯楽陶二郎と間宮には共通点が多い。『CURE』について調べていた時、『怪人マブゼ博士』(1932年)との類似を述べた文章を数多く見かけたが、いくつかの文章を読む限り、マブゼと伯楽陶二郎にまつわるガジェットの類似の指摘と、マブゼと間宮の行為をテロリズムと位置づけ、その共通点について述べているものが多かった。私には間宮の行為がテロリズムとは思えない。彼に目的があると思えない。間宮は何らかのイデオロギーに属していない。彼は超人的であり、空っぽであり、振る舞いは自動的で、その様子は『第七の封印』に出てくる神の御使い「死神」に似ている。(「死神」が死を擬人化したものなら、間宮は何の擬人化だろうか。人に人を殺させるのだから殺意の擬人化だろうか。)そして似姿を残し、御使いを寄越す伯楽陶二郎の不在は、『第七の封印』における神の不在に似ている。
『怪人マブゼ博士』では、カーテンの向こうのマブゼの姿と声が、カーテンを開けて見てみると実は人型の模型と蓄音機の音だった、という場面があるそうだ。『CURE』との類似として挙げられる場面だが、『CURE』では、半透明のビニールカーテンを開けると写真があった。蓄音機は別の部屋、空飛ぶバスでしか行けないと思われる廃墟となった病院のシークエンスの最後に登場する。
『怪人マブゼ博士』で同時に現れた人型の模型と蓄音機の音、そのような似姿や録音された音が、『CURE』では時間差で現れる。なぜ音が後なのか。

廃墟の病院の中で、半透明のビニールカーテンを開け、伯楽陶二郎らしき人物の、薄ぼんやりとした写真を見た高部は落胆した様子だった。その後、壊れたベッドに腰掛けて脱力したように笑った。そこに間宮が現れる。
間宮「やっと来たね、刑事さん。どうして俺を逃がしてくれたの」「わかってる。俺を逃がして俺の本当の秘密を突き止めたかったんだ。あんた一人だけで。そんなことしなくてもよかったのに。本当の自分に出会いたい人間はいつか必ずここへ来る。そういう運命なんだ」
うなだれていた高部はおもむろに立ち上がり、間宮を拳銃で撃つ。倒れこむ間宮。
高部「思い出したか。全部、思い出したか」頷く間宮。「そうか。これで、お前も終わりだ」
掲げられた間宮の指が、それを見下ろす高部に向かってXのような模様を描く。その直後、高部は間宮を撃ち殺す。

この場面で何より気になるのは、高部と間宮が似たようなトレンチコートを着ていることだ。

『CURE』の冒頭で文江の持つ『青髭―愛する女性(ひと)を殺すとは?』(新曜社 1992年)の提示によって示された、高部の文江に対する殺意。高部の殺意は、この映画の一番初めにあった。間宮の登場より前にあった。だから、間宮は高部の殺意の擬人化かもしれない。高部の殺意が人の姿をとって、動いて話せるぐらいに具象化したのだとしたら。間宮は高部の内にあった。高部から発生した。だから二人の衣装は似ている。
ただ、ことはそう単純ではない。
もし「死神」があなたの目の前に現れたら、それはあなたの死を司る「死神」。あなたの死が具象化されたものだろう。死や殺意といった普遍的な事象は誰のものでもある。目の前に現れたその時に、それと対峙した人に事象として現れる、そういう類いのものだろう。それが誰の殺意であろうと、それは誰の殺意にもなる。
だから、間宮と対峙した者は人を殺す。

『CURE』は、ある男が妻に対して殺意を抱き、その殺意と相対する物語だ。
その殺意は見知らぬ男の姿で街を徘徊する。
妻を殺したい。妻を失いたくない。相反する欲望が男の中で渦巻いている。
この状態から救われたい。
男は、見知らぬ男を調べていくうちに形而上的な存在を知る。
男は救いを求め、その存在へと迫っていく。

『CURE』で、形而上的な存在として示されるものに「邪教」がある。映画の世界はキリスト教が圧倒的一大勢力なので、この「邪教」とはキリスト教以外の宗教、という意味だと解釈した。その場合、『CURE』における形而上的な事象を、キリスト教と相対化させて捉えればいいのではないかと思う。
『CURE』(1997年)を見直してみよう No.3沢山の病院とタイトルCUREの意味
の中で、高部が最後に辿り着く廃墟となった病院に関して、「高部がバスに乗り、林を歩いて辿り着いたことから、遠くにあり、またその荒廃の様子から古い建物であることが分かる。これらが、古いものは遠くにある、遠くにある古いものに根本がある、という宇宙論的表現ならば、」と書いたが、この廃墟となった病院の、抽象的な距離や荒廃の表現が宇宙論的表現ならば、この廃墟となった病院に全ての根本、始まりがあるはずである。
前置きが長くなった。
「『怪人マブゼ博士』で同時に現れた人型の模型と蓄音機の音、そのような似姿や録音された音が、『CURE』では時間差で現れる。なぜ音が後なのか。」
という疑問について書いていく。
全ての根本、始まりがある廃墟となった病院で、最後に高部が辿り着いた部屋で聞く、蓄音機から鳴る音。それは全ての始まり、キリスト教でいうところのロゴスである。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。―『創世記』1:3

はじめに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった。―『ヨハネによる福音書』1:1

ロゴスは哲学用語としても使われ、解釈も多様なようなので、理解が満足に及ばないが、神が光をもたらす、創造するのではなく、「光あれ」というロゴスによって光があることから、ロゴスこそ神の本質だという理解のようだ。
邪教」における、はじめにあるロゴス。神とともにあり、神であるロゴス。それは、廃墟となった病院で、最後に高部が辿り着いた部屋で聞く蓄音機から鳴る音である。その音は、複製された神そのものである。ロゴスは蓄音機からの音として表され、複製物の神であることが強調されている。このことを単純に解釈するなら、写真と蓄音機は映画という複製物の隠喩として用いられていると考えられるだろう。映画は、光から音の順に成り立ってきた歴史を持つ。しかし『CURE』では、映画における光より前にあるものとしてロゴスが示されている。

蓄音機から鳴る音を高部が聞いているショットが切り替わると、怯えとも怖れともつかない表情で振り返り、こちらを見つめる看護婦が映る。次に、Xに切りつけられ、何かに固定され移動している文江のバストショットが短く映る。そして最終場面冒頭、ファミレスで食事を終え、タバコに火を付ける高部へとつながる。
ファミレスで食事を終えた高部の様子は、それまでとは打って変わって旺盛で快活で落着いている。なにもかもが上手く片付いたかのようだ。左の薬指には結婚指輪が見える。数秒前には、とても生きているとは思えない文江の姿が映ったというのに、これはどういう事なのだろうか。
この最終場面で気になるのはカメラワークだ。
高部の右側から、ファミレスのガラス壁をバックに、腰掛ける高部の全体とそこに出入りするウェイトレスを固定カメラで撮っていたのが、食後のコーヒーを持ってきたウェイトレスがフレームアウトしたあたりで切り替わる。その後カメラは、高部の左側から画面右側にある高部の頭部越しにファミレスの内部を捉えるが、そのまま固定されることなく動き続け、やがて高部はフレームアウトする。このフレームアウト後も、高部が吸っている煙草の煙が画面に干渉していることから、高部が映っていない最終ショットは、限りなく高部の視点に近いものだと思われる。
この最終ショットは、高部の視点と観客の視点を重ねたものだ。観客と同じものを、観客と同じように高部は見ている。つまり、観客も高部も映画を見ている。高部は自分のいる世界が、映画の中であることを知っている。どうも高部は、映画のロゴスとの遭遇により、それが分かったようだ。
『CURE』の約2年後に公開される映画『マトリックス』(1999年)。この『マトリックス』の主人公ネオと殆ど同じことが、映画のロゴスとの遭遇により高部に起きている。
妻を殺したい。妻を失いたくない。相反すると思われた欲望が満たされている。
最終ショットの視点の重なりによって、すっかり高部がこの映画の主導権を握ってしまったようだ。物語が始まるある出来事。例えば殺人。そういった出来事を、間宮のように催眠術など用いず容易く起こすことが出来るようになっている。それはあたかも、映画を見る観客のように、映画館の椅子に腰をかけスクリーンを見つめるだけで、自動的に出来事に遭遇するかのように起こるのである。

文頭で触れたベルイマン黒沢清について、上記文中で触れられなかった他の類似を補足しておく。ベルイマンの『魔術師』(1958年)の主人公は、メスメルの動物磁気を用いて魔術を操る旅芸人である。またこの『魔術師』には、『岸辺の旅』(2015年)に出てくる「怖い夢を見た」(どんな夢かは語られない)という何かしらの告白のような台詞も出てくる。
海岸に突如現れる登場人物、メスメルの動物磁気、「怖い夢を見た」(どんな夢かは語られない)という台詞。私は黒沢清ベルイマンも全作品見ているわけではないので、まだ他にもあるかもしれない。ただ、この3つの類似に気づいて思うのは、偶然似るにしては特殊な表現である、ということだ。ヒッチコックにしてもリチャード・フライシャーにしても、黒沢清は元映画が判るような、目を引く表現を模倣する。なので、ベルイマンとの類似もそうではないのかと思うが、模倣する監督について大概言及している黒沢清が、ベルイマンについては何も語っていない。私が知らないだけだろうか。

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『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)について

監督:黒沢清

ネタバレあります。

お正月休みに『ヴァンパイア/最期の聖戦』(1998年)を見ていて、『クリーピー 偽りの隣人』が吸血鬼映画だったことに遅ればせながら気づいたので書いておく。

以下は、『クリーピー 偽りの隣人』と吸血鬼映画の分かりやすい類似点を箇条書きしたもの。
・高倉(大学教授。専門は犯罪心理学)と西野、ヴァン・ヘルシング(大学教授。専門は精神医学)とドラキュラの対立構図。
・短い階段のアプローチから地下、または半地下に至る死にまつわる空間。西野家の監禁・殺害部屋と吸血鬼映画の地下墓所
・康子の腕の注射痕のショットと、吸血鬼映画の首元の牙痕のショット。
・ドラキュラを思わせる西野の黒ずくめの装い。
・多くの吸血鬼は住居込みの存在である(ドラキュラ城、西野家)。

クリーピー 偽りの隣人』の観賞直後の印象は、"民間伝承だか都市伝説だかを見ているような映画"だった。物語の舞台が郊外と田舎の境界であることや、物語が断定的に進行する様、田中が西野を指して言う「鬼」という言葉がそう思わせた。
なので『クリーピー 偽りの隣人』を吸血鬼映画と捉え、いくつかの吸血鬼映画を確認がてら鑑賞するとともに、民間伝承として語られる吸血鬼も知りたかったので、『吸血鬼伝承』(平賀栄一郎2000年)を読んでみた。
この本で吸血鬼は以下のように定義される。

「それは「生ける死体」である。死したのち墓処からふたたび肉体のまま現れて(亡霊〈亡魂〉でなく)、人々に、とりわけ近親者に害をなし、死に引きこむ死者である」「死して葬られたのち、葬処より起き上がって親族や隣人を襲う死者。生と死の境界を暴力的に侵犯する凶々しく肉体的な危険。」

まずは「吸血鬼」の名称について、混乱を避けるために先に断っておく必要があるだろう。上記の定義に含まれていない吸血行為についてだが、『吸血鬼伝承』では以下のように説明されている。
「一般に血を吸うのがヴァンパイアVampireの特質と考えられ、日本語の「吸血鬼」などまさにその性質のみに基づく命名だが、東欧の「吸血鬼」が血を吸うことは決して多くない。―「吸血」は「吸血鬼」の本質ではないのだ。血は体液のひとつであり、―「生気を奪う」の比喩的具象化と考えてもいい。」

この本によると、ヨーロッパにおける吸血鬼の故郷は、東欧・バルカン地方の伝承にあるそうだ。
「「東欧」というのは、―ヨーロッパ文明の中心である西欧と、それと異質な、あるいは異質な面の多いトルコやロシアへの移行の場、グラデーションの空間、ヨーロッパ文明の辺境。」
上記の定義に当てはまる怪異・妖怪の存在は「移行の場」「グラデーションの空間」、特定の文明の辺境に現れ、それらは呼称は違えど吸血鬼と括られる。
吸血鬼伝承が伝わる場所の特徴(「移行の場」「グラデーションの空間」、特定の文明の辺境)に『クリーピー 偽りの隣人』の物語舞台の特徴「郊外と田舎の境界」との重なりがあるように思える。

そもそも東欧・バルカン地方の土俗的信仰であった吸血鬼は、西欧に「発見」され、17世紀から18世紀にかけてドイツ・フランスの学界や有閑人士たちの間で一大吸血鬼ブームを巻き起こした。その後、1897年にイギリスで刊行されたブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』のヒットによって広く知られるようになり、これを原作とした映画(『吸血鬼ドラキュラ』1958年)もヒットしたことから、「若い女性の生血を吸う黒マントの長身で上品な紳士」という現代の吸血鬼のイメージが形成されたようである。

以上のことを踏まえて、
クリーピー 偽りの隣人』を吸血鬼映画のフォーマット(そのようなものがあるのかどうかは知らないが、いくつかの吸血鬼映画に共通して見られる演出やモチーフはある)を踏襲しながら、伝承される吸血鬼「生ける死体」の存在を現代に見出している吸血鬼映画だと捉えてみよう。

西野は吸血鬼映画に登場する吸血鬼である。
吸血鬼映画に登場する吸血鬼とは、吸血鬼として登場し、人々を恐怖に落としいれ、人々と対立する存在である。
クリーピー 偽りの隣人』から離れてしまうが、黒沢清フィルモグラフィーに目を向けると、西野役の香川照之は、『トウキョウソナタ』(2008年)に佐々木竜平役で登場しており、この佐々木竜平という人物には、自動車にはねられ、路肩に横転した状態で動かなくなり、やがて動き出すという場面がある。この場面は、「意識を失った人間が意識を取り戻した」とも「死んだ人間が動き出した」ともとれる。どちらにしろ映像に違いはない。同じ理屈で西野昭雄と佐々木竜平にも映像に大きな違いはない。どちらも香川照之である。この場面を、「死んだ人間が動き出した」とした場合、黒沢清フィルモグラフィーに吸血鬼「生ける死体」として香川照之が登場する流れはあるのだが、吸血鬼映画に吸血鬼が登場するのに理由などいらないので過去作品は無視してかまわない。
西野は吸血鬼である。
西野はまず、何らかの条件に見合った家を見つける。その家をターゲットに、そこに暮す者に取り入り、何か常習性のあるものを注射して家人を操り、家と金を手に入れて暮しているようである。その暮しに障害となる者は殺害され、利用できる者は生かされる。西野は生存というよりも社会の中で暮すために人々を利用し、必要であれば何かしらを注射して生気を奪い、その者を操る。
『ヴァンパイア/最期の聖戦』では、ヴァンパイアに咬まれた者は、体力・意識レベルが下がり、時間が経つにつれ自身を襲ったヴァンパイアと意識がつながり始め、およそ48時間が経過するとヴァンパイアになる。劇中で「吸血により何らかのウイルスに感染しヴァンパイアになる」という吸血鬼ハンターの台詞があったが、吸血と同時にウイルスが注入されているのだろうか。ウイルスでも注射でも、どちらにしろ被害者の体力・意識レベルが下がり操られるのは『クリーピー 偽りの隣人』と同じである。

この吸血鬼の手口に康子はなぜ落ちたのだろうか。
康子は新天地に越してきた主婦だ。手の込んだ料理を作り、ペットをしつけ、愛想よく近所付き合いをしようとする。しかし、近所の田中からは近所付き合いはしないと言われ、隣人の西野からは、ここら辺の人は近所付き合いをしないと言われ、彼女にとっての社会がすっかり西野だけになってしまう。康子の何気ない会話を歪める西野の反応が、彼女にとっての社会の反応になってしまう。彼女の主婦としての模範的な振る舞いが社会との相対化によるものだったとしたら、その社会が西野に取って代わったことで、彼女の振る舞いが狂いだすのも無理はない。
アンダーパスで握手を求める西野に手を差し出す康子。握手を求める隣人に対し、康子は断る術を持たない。彼女の模範的な振る舞いが形骸化された自動的なものであること。そこに自由意志などないこと。「私もうとっくに諦めちゃったのよいろんなこと」と康子は高倉に言う。康子はもうずっと前から形骸化され、自由意志を持たず、自動的に振舞っていたのだろうか。西野はそのことを暴いただけなのだろうか。
だとしたら西野という『クリーピー 偽りの隣人』が描く吸血鬼は、形骸化された人間を暴く触媒なのかもしれない。

高倉はどうだろうか。
映画冒頭、高倉は警察署内で連続殺人鬼と面談をする。間も無く、その連続殺人鬼は署内を逃亡し、人質を取り、高倉が事態を収めようと連続殺人鬼に説得を試みる。しかし、その説得は失敗し、高倉はフォークで刺され倒れこむ。
このフォークによる刺痕が映されることは無いが、想像するに牙痕や注射痕と良く似たものだろう。高倉はこの時「生ける死体」になった。そう考えると、高倉が西野の監禁・殺害部屋にある死者が入れられる穴、または入ると生きては出られない穴(谷本刑事の最期)に入り、腕の力だけでヒョイッと上がってくることや、注射により操られなかったことの説明がつく。高倉はとっくに「生ける死体」だったのだ。彼には生と死の境が存在しない。
またこのことから、劇中で用いられた「鬼」という言葉が「殺人鬼」や「吸血鬼」といった秩序・無秩序混合型に共通する概念であることも見えてくる。イメージの吸血鬼ではなく、伝承される吸血鬼「生ける死体」は、日本ではただ「鬼」と呼ばれるのかもしれない。

映画終盤、西野は同じ「鬼」である高倉を操れていると思い込み、高倉に拳銃を渡し犬を殺すよう指示を出す。その好機に乗じ、高倉は西野を撃つ。撃たれた西野はその場に倒れこみ動かなくなる。劇中の高倉家のカレンダーが6月だったことから、倒れ込んだ西野に枯葉が吹きつけるショットは、倒れ込んだずっと後の出来事、もしくは西野の肉体が滅ばない暗示だろう。西野は吸血鬼「生ける死体」だから、また動きだすかもしれない。
そのショットに康子の叫びが重なる。彼女の叫びもずっと続いているのだ。西野家に乗り込んだ高倉に、「あなたまでここにくる必要なかったのに」と言った康子は、夫が「生ける死体」だとは気づいていなかった。康子が形骸化した理由は分からないが、高倉にその理由があるのだとしたら、例えば、高倉を生かすために彼女が形骸化したのだとしたら、とっくに高倉が「生ける死体」だったという事実に絶望し、叫び続けているのかもしれない。

長くなりました。ここらへんでやめます。
混乱するかもしれませんが、「吸血鬼」「鬼」「生ける死体」という言葉は、ほぼ同義で使用しています。
公開当初、黒沢監督がこの映画をダークファンタジーと言っていて、全く意味が分からなかったのですが、吸血鬼映画ならダークファンタジーですね。

『叫』(2006年)感想・ネタバレ

監督:黒沢清


黒沢清監督作品については色々とこのブログで書いていますが、『叫』は観ていませんでした。いいタイトルです。まるで名作古典映画のようです。
コンクリの壁から葉月里緒菜さんがコンニチハしている写真をどこかで見て、コメディなのかなと思っていたのですが違いました。

あらすじを書いておきます。

まず、殺人が起こります。被害者の死因は、海の水を大量に飲んだことによる溺死。その後に地震が起こったことで、湾岸沿いの殺人現場は液状化し、過去と現在が同じぬかるみに浮かび上がります。
事件を担当する刑事の吉岡登は、ぬかるみを探索し、過去とも現在ともつかない遺留品を次々と見つけ、それらが自分に関連するものばかりだったため大いに混乱します。
もしかしたら自分に関係があるのかもしれない女の遺留品の吊るされた赤いワンピースを見て怯える吉岡。彼はその後、赤いワンピースを着た見知らぬ女の幽霊に付きまとわれ始めます。
幽霊は、「どうしてあたしと一緒にいてくれなかったんですか」と、訴えてくるのですが、吉岡には身に覚えがありません。
幽霊は俺と何か関係があるのか、俺は何かやったのか、と吉岡は悩みます。精神科医の高木は、「幽霊の声は、真実の声です」と言い、恋人の春江は「そんなことどうだっていいじゃない。今の私たちに関係ない」と言います。
被害者の赤いワンピースの女の身元は分からないまま、海の水を大量に飲ませる、という同様の手口により、男子高校生が殺害されます。行方不明になっていた男子高校生の父親、佐久間昇一を吉岡が偶然見つけ取調べると、「全てを無しの状態にする」ために息子を殺害をしたと供述します。最初に殺害された赤いワンピースの女とは無関係で、犯行手口はたまたま重なっただけであったことがわかります。
再び同様の手口による犯行が起こり、容疑者の女、矢部美由紀が指名手配される中、最初に殺された女の身元が判明します。それは吉岡の知らない女で、犯人は女の元婚約者でした。
これで赤いワンピースの女のことは片付いたかに思われましたが、再び赤いワンピースの女の幽霊が吉岡の前に姿を現します。
幽霊は、「ずうっと前あなたは私を見つけて私もあなたを見つけた」「ずうっと待ち続けて誰からも忘れられて死んだ」と、吉岡に訴えます。
お前は最初に殺された女じゃないのか。お前はいったい誰なんだ。
吉岡はどうしても真実をやり過ごすことが出来ず、何とか過去の記憶からその女の人影らしきものを思い出します。
その後、吉岡はまたしても偶然、恋人を殺害した容疑で指名手配中の矢部美由紀を見つけます。
矢部美由紀も佐久間昇一と同様に「急にみんな無しにしたくなって」恋人を殺害したと言います。そして吉岡の、赤いワンピースの女の幽霊を知っているか、との問い掛けに頷き、「誰も私に気づいていない私は世界から忘れられる目の前にいる人が全然私をみていない」という彼女の気持ちがこっちに流れ込んできたみたいだった、と言うのでした。
吉岡は古い記憶を頼りに、湾岸沿いの黒いアパートに辿り着きます。そこには誰かが存在した様々な痕跡と共に、窓の外を見つめる赤いワンピースの女の幽霊の後姿がありました。
「やっと来てくれたのね」
「あなただけ、許します」
彼女は振り向くことなく、その言葉を残して吉岡の前から消えてしまいます。
幽霊の存在に悩まされることのなくなった吉岡は、ある時ふと家の棚の上にポリタンクが置いてあることに気づき、そのポリタンクで海水を運んだことに思い当たり、その海水を器に張り、春江を溺死させたことを思い出します。
家の隅の部屋には、いつからそうだったのか、器に顔を埋めたまま白骨化した春江の死体が横たわっていました。
その真実に愕然とする吉岡。
その場に姿を現した春江は、「恨んだってしょうがない。登には登の未来があるんだし、だからもう忘れて、私のこと」と言い、衝動的に自殺を図ろうとした吉岡を思い留まらせるのでした。
「君も、俺を許すというのか」
吉岡はまたしても許され、春江は消えてしまいます。
吉岡は、ボストンバッグに春江の骨を詰め、湾岸沿いに佇む黒いアパートへ赴き、そこにあった骨もバックに詰めていきます。ふと気配を感じて振り向くと、そこには風にそよぐ赤いワンピースがあるのでした。
吉岡はボストンバッグを携え、車道を歩いて行きます。走る車も人もなく、街は荒廃しています。
その景色に幽霊の声が重なります。
「私は死にました。だからみんなも死んでください」
そして映画は、音も無く叫ぶ春江の姿を捉えて終わります。


この映画に出てくる光と風の演出は、水の中を表しています。
最初の殺人場面の光の反射、佐久間昇一の取調室や、警察署内の光の散乱、吉岡と春江が過ごす室内の様子を窓ごしに捉えたショットには、水面の光が窓ガラスに映っています。
漂うようにゆれるシート、警察署内の電灯。赤いワンピースの女の幽霊の髪は、まるで水の中にいるかのようにスローモーションでなびいています。
「この間みたいな地震があと何回か続いたらこの辺みんな元の海に戻るんじゃないの」と、吉岡は言います。
吉岡の言うように、この映画に出てくる犯人たちは、地震により、元の海の中に戻ってしまっているようです。その一人である矢部美由紀は、地震に遭った直後に恋人の小野田を殺害するため、海の水を採取しようと湾岸沿いまで車を走らせますが、水の中にいるために車の後方に渦が生じています。これは、水の中をモーターで推進する時に生じる現象です。
犯人たちはこれらのことに皆無自覚のようですが、全てを無かった状態にするために、海水を用いて溺死させる、という殺害方法を用います。
海底都市があるのなら、きっとそこには溺死という、殺害方法も死因も存在しないでしょう。
海の中では存在しない殺害方法で、赤い服の女と同じ様に、「誰も私に気づいていない。私は世界から忘れられる。目の前にいる人が全然私を見ていない」状態にする、つまり海の中にいる状態にすることが、全てを無しの状態にするということなのでしょうか。
海の中では存在しない殺害方法で死んだ春江は、殺された・死んだ、という真実が消え、海の中の状態となり、同じ状態の吉岡と春江の周りには、湾岸沿いだろうが、駅の改札口だろうが、二人の他に誰もいません。
そして、彼らと状態を同じくする犯人は、吉岡だけに見つけられます。この時もまた、犯人と吉岡の他に誰もいません。吉岡がいなければ、彼らは誰にも気づかれず世界から忘れられ、全てを無しの状態にしたのかもしれません。


この映画は劇中で年代を指定していません。その場合、劇中の年代は大体公開年ぐらいだと推定していいと思うのですが、赤い服の女が湾岸フェリーから目撃された15年前あたりに、東京湾地震がなかったか調べたらありました。1992年の2月2日に東京湾の南部で震度5の地震が発生しています。東京では1987年以来の大きな地震だったようです。黒沢清監督が年をはっきりさせる場合、他の作品を見る限り実際の事象や出来事に呼応させているので、赤い服の女が水の中の状態になったのは、この地震が原因のようです。公開の約半年前にも1992年以来の大きな地震が発生しており、春江が半年前に死亡していることと重なるのですが、流石に撮影、編集などの作業工程を考えると無いと思うのですが、重なってしまっていることに黒沢監督の運命というか宿命というか、そういうものがあるのかもしれない、と作品を超えたところにまで思いが及んでしまいます。

観てからあまり間を置いていないので、色々考えている途中なのですが、話の元ネタになっているのは、ゲームの「ドラゴンクエストエデンの戦士たち」(2000年)とアンデルセン童話の「人魚姫」(1836年)なんじゃないのかな、と今のところ思っています。
ドラクエ7はやっていないのですが、Wikiによると、黄・赤・緑・青色の「不思議な石板」とよばれるアイテムを台座に揃えて過去の時代の1地方に赴き、過去の時代でのイベントをクリアして封印を解けば、現在においてその地方の陸地が出現するらしく、遺留品もそうですが、それ以外でもこの黄・赤・緑・青色の物がよく出てくる映画です。過去の場所(黒いアパート)に行って主人公が許されて、その後家に帰ると今まで気づかなかったものが出現しているところも似ています。海底都市も出てくるようです。
「人魚姫」は、春江が自分の飲み物に何か入れていた場面があったのと、水と空気の界面に阻まれて声が聞こえない、王子や他の人々に消えたことが気づかれないなど、理解の助けになりそうな要素があるような気がしています。

水の中ゆえに、赤いワンピースの女の幽霊が瞬きをしないことや、車の後方の渦もそうですが、春江の赤い柄模様のワンピースに、初めは黒いカーディガンを羽織らせ、次に白いカーディガン、最後はカーディガンを脱ぐ、などの水の中を意識した(水深が下がるほど赤い色は見えにくくなる)細かい演出。そして、『絞殺魔』を意識した犯人逮捕場面の長回し。魅力的なロケーション。格好良い冒頭の殺害場面!相変わらず見所だらけの映画でした。何よりハラハラさせられたのが、様子がおかしく、怒り出す吉岡に熱いコーヒーポッドを持たせたまま同僚の宮地とやりとりさせる場面です。刺激をしないように吉岡をなだめながら、そっとコーヒーポッドを奪う宮地。怒っている吉岡よりなにより、熱いコーヒーポッドをいつかぶちまけるんじゃないかとハラハラさせられます。こういう演出はもっと色んなところで仕掛けられるべきです。

『CURE』(1997年)を見直してみよう No.3 沢山の病院とタイトルCUREの意味

監督:黒沢清


CUREという言葉には、癒す・治療するなどの意味がある。
なぜ、この言葉が映画のタイトルになっているのだろうか。

まずは、癒しや治療を担う機関である病院とCUREについて書いていきたい。
とにかく病院が良く出てくる映画である。
以下に、『CURE』に登場した病院を挙げておく。

文江が通う病院・妻殺害後の花岡が収容された病院・宮島の勤務する病院・佐久間の勤務する病院・間宮が収容された閉鎖病棟・遺体となった佐久間が運ばれた病院(台詞で言及)・文江が預けられた病院・かつて伯楽陶二郎がいた、今は廃墟となった病院

これら『CURE』に出てくる病院は、単に癒しや治療を担う機関としては描かれていない。これらの病院は、精神障害者・犯罪者・死者などが行き着く場所として描かれている。
都市において、精神障害者・犯罪者・死者とは、都市生活が送れなくなった者、都市に居られなくなった者という共通点をもつ。また、都市生活者は、そのほとんどが病院で誕生し、病院で死亡する。理由があっても無くても、都市生活者は最終的に病院に辿り着く。そして、そうやって病院に辿り着いた都市生活者は、病院の次に行くべき所を知らない。
これらの理由から、『CURE』では、都市生活者の存在の縁・境界を表した物理的形態として病院を捉え、舞台にしていると考えられる。

高部が辿り着いた最後の病院(かつて伯楽陶二郎がいた、今は廃墟となった病院)は、この映画で最後に出てくる病院だが、高部が最後に訪れたことから、彼にとっての最後の病院という意味も持っているだろう。それは、彼の死に一番近い場所という意味を持つ。
この病院で間宮は、「本当の自分を知りたい奴はここにたどりつく」と言った。この病院は、高部がバスに乗り、林を歩いて辿り着いたことから、遠くにあり、またその荒廃の様子から古い建物であることが分かる。これらが、古いものは遠くにある、遠くにある古いものに根本がある、という宇宙論的表現ならば、この病院は、都市の最果ての行き詰まりにあるということになる。

この都市の最果ての行き詰まりにある病院で、ビニールのカーテンの向こうに見える人影がただの紙切れだった時、高部は落胆した。ここに来れば苦しみが癒され、治療されると高部は思っていた。高部に信仰があれば、救いを求めてエルサレムなり天竺なりへ行っただろう。しかし高部は信仰を持たない。癒しや治療を求めて病院に行く以外、行き場所がないのである。SALVATIONを望むことが出来ない都市生活者は、CUREを望むほかはないのである。

高部は、この都市の最果ての行き詰まりにある病院で間宮に会い、間宮を殺害し、角部屋に置いてあった蓄音機で声を聞いた。その後、Xに喉元が切れた文江が、彼女が預けられた病院(と思われる)の廊下を移動するショットが短く映し出され、最後のファミレスの場面になる。このファミレスの場面で、旺盛に食事をし、電話口で快活に話す高部は、どう見ても癒され・治療されている。

以上のことから、この映画のタイトルのCUREとは、「救い(SALVATION)ではない」という意味がみてとれる。高部は、自身の生き方や自身を取り巻く環境から、人々の殺意の源や死について深く囚われている。決して精神障害を患っているわけではない。それでも、苦しみから解放されるための救いを求められない信仰を持たない都市生活者として高部は放浪し、救われることなく癒され・治療される。


次にもう一つ、CUREというタイトルに関して、興味深い発見があったので記しておく。
この映画には、カーボンアーク灯という治療器具が登場する。
画面にカーボンアーク灯を見つけた時、私はそれが何なのか分からなかった。それから何をどう調べたか忘れたが、ウシオ電機のキセノン光線治療器に関するPDFに行き着いた。http://www.ushio.co.jp/documents/technology/lightedge/lightedge_38/le38-3.pdf
カーボンアーク灯からキセノンフラッシュランプへの移り変りなど、光線治療器具のランプの歴史は、そのまま映写機ランプの歴史と重なるようである。なにより、映画の光と同じ光に治癒効果があることに驚く。PDF冒頭のエピソード「カーボンアーク灯は公園などの広域照明に用いられており、夜な夜な、暖を求めてカーボンアーク灯に集まる浮浪者たちのくる病が、薬も使わず治癒したことをきっかけにして、カーボンアーク灯に含まれる紫外光の治療効果が発見された。」などは、そのまま公園を映画館に置きかえたいぐらいである。

このカーボンアーク灯は、宮島の勤務する病院に登場する。
宮島の診察室に置かれているカーボンアーク灯は点灯していないが、誰も居ない病院内のガラスで仕切られた一角を映した短いショットには、点灯しているカーボンアーク灯が登場する。この点灯するカーボンアーク灯を映し出したショットは、画面の一番奥に病院の廊下が見え、その廊下がガラスで仕切られ、その仕切られたガラスの手前にベンチとこちらを向いて光っているカーボンアーク灯があるというもので、これはスクリーンを鏡に見立てたショットである。
スクリーンが鏡となり、椅子とカーボンアーク灯の光(映画と同じ光)が反射している。このショットは、ガラスを隔てて見える背後の病院内の光景が、映画館の外の光景だと伝えていると同時に、映画を観ている者も、癒し治療されている事を示唆している。





映画を観て、治療されていたとは驚きですね。

ここまで書いてみて、信仰のない黙示録を描いているのかな、と思いを新たにしました。あと書いておきたいのは、間宮は何者なのか、と高部は最終的にどうなったのか、と青髭の物語との関連です。盆休みまでには終わらせたい。
あと、黒沢清監督の『岸辺の旅』がカンヌ映画祭ある視点部門で監督賞を受賞されたようで、めでたいですね。

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『CURE』(1997年)を見直してみよう No.2 都市のランドマークと猿のミイラ

監督:黒沢清

『CURE』のレビューを読んでいると、映画の雰囲気が前半部と後半部で違う、という印象を持った人が少なからずいることがわかる。
実際『CURE』の後半部は、前半部に比べ短いショットが多くなり、ショットや場面のつながりが分かり辛くなり、ロケーションがますますおかしくなっていく。のだけれど、この変化はどこからともいえず少しずつ起っているのだろうか。それとも、どこかからはじまっているのだろうか。だとしたら、どこからはじまるのだろうか。


結論は出ているので、先に書いておく。
『CURE』は、あるショットを契機に変る。正確には、そのショットが捉えたモノが変化の起因となる。そのモノとは、四肢をつながれた猿のミイラである。

なぜ、四肢をつながれた猿のミイラが変化の起因となるのか。その理由をいくつか説明していこう。

シルバースプリング事件を知っているだろうか。
この事件は、1981年にアメリカのメリーランド州にあるシルバースプリングの行動学研究所で起こった。ここで行われていた17匹のカニクイザルを使った動物実験の様子を、動物愛護団体の者が施設に侵入して撮影し、その写真を警察に渡したことで研究者が逮捕され、一般にも広く公表したことで論争が起こり、米国議会で動物の権利について審議されるきっかけとなった事件である。
その時に撮影された写真が、silver spring monkeyで検索すると出てくるのだが、それが四肢をつながれた猿の写真なのである。
この写真は、四肢をつながれた猿という符合もさることながら、暴かれたピクチャー、ある事象のランドマーク的役割を果し、社会に変化をもたらした等々、『CURE』と関連づけてみると興味深い。この写真が四肢をつながれた猿のミイラの元ネタだと言いたいわけではなく、四肢をつながれた猿のピクチャーは、『CURE』公開時には既に上記のような意味づけが成されていた、もしくは、上記のような効果をもたらした実績があるのである。

四肢をつながれた猿のピクチャーが過去に現実世界に存在し、それが社会に混沌と変革をもたらしたから、良く似たピクチャーである四肢をつながれた猿のミイラが、映画『CURE』の物語世界に混沌と変革をもたらしたとしても不思議ではない。また、暴くことによって混沌と変革が発動するピクチャーであるから、映画を観る者が予め四肢をつながれた猿の存在を知らないことが望ましい。
といいたいわけだが、ずいぶんな曲論だと思われた方に、言い訳ではないがそもそもsilver spring monkeyに行き着いた経緯を説明しておきたい。

『CURE』を見直して一番気になったのは、都市の描き方だった。建物、道、境界といったものを意識的に描き出しているように思われた。生活でも仕事でも舞台となるのは主に病院。様々な病院。場面のつながり上、必要だとは思われない登場人物の移動場面。海岸、港、踏切といった都市の境界。
深い霧の中を行く車。空飛ぶバス。空飛ぶバスでしか行けないと思われる、文江があずけられた病院。同じく空飛ぶバスでしか行けないと思われる、林を抜けると佇む、大きな廃墟と化した多分これも病院。これらのものが登場する映画後半部は、ショットや場面のつながりもさることながら、舞台の街に異質なルートと建物が加わったように感じた。


どこから街が変容したのか、また街を変容させるにはどうしたらいいのか。
映画の前半部で高部が桑野の家宅捜査を終えた場面と、交差点のアンダーパスのトンネル内部で凶器の特定をする場面の間に、高部が一人屋上に佇む場面が挿入されている。高部は屋上から街を見ている。ありふれた街だ。遠くに、これまたありふれた白色航空障害灯が光る高い煙突が見える。これが、この街のランドマーク、街のシンボルだった。
街を変容させる一番手っ取り早い方法は、このランドマークを挿げかえることなんじゃないかと思う。旗でもいい。例えば、変じゃない城に変な旗を掲げたら変な城だと認識されるだろう。城主は頭がおかしいと言われるかもしれない。変なのは旗だけなのに。
ランドマーク、旗、それらに相当するシンボリックな存在を『CURE』に求めるなら、それは四肢をつながれた猿のミイラ以外ないのではないだろうか。

高部が間宮のかつての住居で四肢をつながれた猿のミイラを見た時、高部の世界認識は変容した。自分がいるのは四肢をつながれた猿のミイラが存在する世界だと認識した。かつての高部の世界とは、ありふれた煙突のそびえる街である。その街に、高部の家と仕事場(管轄)はあった。高部は旅行に行こう、と文江に言う。こことは違う世界へ行こう、と誘う。しかし、高部は旅行には行かない。なぜなら、世界の方が変わってしまったから。高部は違う世界へ行く必要がなくなったのである。


変なもの、異質なもの、奇妙なもの。それらのものが登場すれば、その登場を起点に自動的に映画内世界は変容していくものなのか。それが、四肢をつながれた猿のミイラである必要はあるのか。それらは何でもいいのか、ということについて考えていた時、猿、儀式、実験などをキーワードに調べていたらsilver spring monkeyがヒットしたのである。


silver spring monkeyが『CURE』に関係していようといまいと、『CURE』を具体的に説明できるものであれば何でもかまわなかったので色々と調べてみた。すると、写真の猿に施されている実験から興味深いことがわかってきた。

シルバースプリングの行動学研究所で研究者は、サルの指や手、腕や足につながる知覚神経節を切断し、まずサルの感覚を失わせ、様々な実験を行っていた。この指や手、腕や足につながる知覚神経節を切断し、感覚を失わせることを「求心路遮断」という。
この「求心路遮断」は、外科的治療を伴わなくても人為的に引き起こすことが出来る。 瞑想を行う。あるいはアイソレーション・タンクと呼ばれる、光や音が遮蔽され、液体を湛えた小部屋ないし大きな容器を用いることで感覚遮断状態は引き起こすことができるのである。

『CURE』において、四肢をつながれた猿のミイラが登場する際、常に黒い水が低く張っているバスタブが共にあるのが気になっていた。四肢をつながれた猿のミイラを見るのは、劇中において高部と佐久間だけである。その内、佐久間は白昼夢として四肢をつながれた猿のミイラを見ている。それも高部の見た間宮のかつての住居でではなく、間宮が収容されている閉鎖病棟の室内の中で見るのである。
四肢をつながれた猿のミイラは、出現場所が変わっても、白昼夢でもそうでなくても、シャワーポールにくくられて、周囲の壁や床に手足をロープで張るだけでは完全ではないかのように、常にバスタブと共に設置される。

silver spring monkeyに良く似た見た目のミイラとバスタブ。
このバスタブが共にあることで、四肢をつながれた猿(とバスタブ)という視覚情報から抜き取るべき情報は、宗教儀式でも動物虐待でもなく、アイソレーション・タンクとバスタブの類似性から、シルバースプリング事件における猿に施された感覚遮断状態である「求心路遮断」なのではないだろうか。この四肢をつながれた猿のミイラとバスタブは変容を引き起こすランドマークであり、「求心路遮断」を視覚化させたオブジェなのではないだろうか。

以上は、四肢をつながれた猿のミイラとバスタブというピクチャーについて、連想ゲームのようなものを延々と行った結果である。

初めに、変容の起点となったショットとして四肢をつながれた猿のミイラを捉えた瞬間、謂わば、静止画としてのピクチャーを挙げたわけだが、四肢をつながれた猿のミイラにはどうも見せる手順があるらしく、世界を変容させるにはその手順をふまないといけないようである。また、その手順をふんで、映画では四肢をつながれた猿が2回(間宮の家宅捜索で高部が見る、白昼夢で佐久間が見る)登場していることから、『CURE』の変容は2回、もしくは2段階の変容を遂げていると考えられる。

まずは四肢をつながれた猿のミイラ目撃手順だが、これは映画を観てもらえればわかるとおり、間宮のかつての住居近くにある焼却炉、檻の中の生きた猿、四肢をつながれた猿のミイラとバスタブの順番で必ず登場している。その後の自殺(文江の首つり自殺の白昼夢、佐久間の現実世界の自殺?)という共通点も伴う。
現実で見たら白昼夢で自殺。白昼夢で見たら現実で自殺。という反転現象が起こっていることに気づかれたと思うが、今回の記事ではそのことまで書かない。

四肢をつながれた猿のミイラが最初に登場するのは、刑事たちが取り調べで間宮の背中に火傷を発見した後である。この背中の火傷を刑事たちが見る場面から、焼却炉のショットにつながることから、間宮の背中の火傷は、この焼却炉に触れたことによる火傷なのではないかと推察される。高部は佐久間に、間宮の火傷は川崎の廃品回収センターのバイト時のものだろうと説明するが、それは高部が間宮のかつての住居近くにある焼却炉の近くを素通りしただけで、見ていないからである。
そうなると、この一連の四肢をつながれた猿のミイラ目撃手順をふんでいるのは、上記の推察をふまえると、間宮と佐久間と映画を鑑賞している者ということになる。高部は焼却炉を見ていない。

一連の四肢をつながれた猿のミイラ目撃手順が映画内で示された時(鑑賞者が一連の映像を順に見た時)、映画内世界は変容する。また、間宮や佐久間のように全手順を見てしまった者は、自己変容が起こるのではないだろうか。その変容とは、四肢をつながれた猿のミイラとバスタブが表す「求心路遮断」である。
「求心路遮断」が起こると、脳の上部の後方領域にある、方向定位連合野の活動が極端に低下する。この方向定位連合野とは、外部から感覚器官を通して入ってくる大量の情報を使って物理的空間の中で自己の位置づけを行う領域で、この領域への情報が遮断されると、方向定位連合野は自己と外界との境界を見つけられなくなり、その結果として、自己と外界との区別は存在しない、という判断を下すとされている。
これは、物理的空間の位置づけができなくなる。自己と外界との区別がつかなくなるなど、間宮の特徴と一致を示す。
そして、映画内世界においては、四肢をつながれた猿のミイラ目撃手順を2回ふむことで、鑑賞者は主人公高部の物理的な位置を見失い、高部の内的世界と外的現実との境目を見失っていく、という「求心路遮断」が示されているとみることができるだろう。





長くなりました。
猿のミイラが映画のランドマーク機能を果たしているんじゃないか、と思って調べてたら、ケヴィン・リンチ著『都市のイメージ 新装版』(2007年)に行き着いたんですが、この本はかなり『CURE』の世界観に影響をあたえているんじゃないでしょうか。これ面白い本で、『CURE』以外でも現代映画を観る上で色々参考になりそうです。「求心路遮断」に関しては、アンドリュー・ニューバーグ他『脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』(2003年)に詳しく書いてあるようです。読みたかったんですが、読んでません。

今のところ『CURE』は、オカルトを科学的に都市の形状や機能を用いて示す、みたいな印象です。人間の心理状態を都市の形状や機能を用いて示す、でもいいんですが。ミイラが出てくるんで、同監督の『loft』(2005年)も見直したんですが、改めて無茶苦茶な映画だな、と思いました。前半は黒沢映画の中でも1・2を争う面白さですが、後半は別の意味で面白くなっていきます。『loft』については書ける気がしない。
『CURE』との関連が深いのは『カリスマ』(1999年)だと分かってはいるのですが、広がりすぎると書けなくなる恐れがあるので、しばらくは見直しません。

猿のミイラを一連の手順で見なかった高部の変化については、また書けたら書きます。

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『CURE』(1997年)を見直してみよう No.1 間宮の催眠術とXの印

監督:黒沢清


前回の記事で、『CURE』について書かない、と書いたが書くことにする。
前回の記事以降も『CURE』について考えていたら、映画の中で描かれていることで、具体的に説明できる事柄がいくつかあることに気づいた。
具体的に理解したところで、映画に対する印象はさほど違わないので、あまり意味はないのかもしれないが、もう一度見直してみよう、と思っている人には、それなりに楽しい発見になるかもしれない。


多くの人は、むしゃくしゃすることがあっても、むしゃくしゃしてやってしまうことはないと思う。だから、「むしゃくしゃしてやった」と説明されてもピンとこない。むしゃくしゃして感情が抑えきれず、一種の興奮状態で我を忘れて、やった、のだろうか。と無理やり推測するしかない。しかし、この映画に出てくる警官の大井田のように、落ち着いていたりすると、もう解らない。「むしゃくしゃして(…)やった」こうではないだろうか。何か理解のできないものが(…)のところに潜んでいる。
「魔が差した」でもいい。何か理解のできないものによって、理性や倫理観が働かなくなる。「ちょっと魔が差したんだろう」と精神科医の佐久間は言う。でも、そこのところを犯人に聞いても、誰も解らないし、覚えていない。大井田の言う「名前は…ない!」ものらしい。
映画冒頭、文江と医師の場面のあとに、この映画の最初の犯人である、桑野が通りを歩いている場面がある。歩く桑野は、立体交差点の下の道路、このように少し窪んでいる下の道路をアンダーパスというらしいが、そのアンダーパスの交差点内のトンネルに入ると、そこで凶器の鉄パイプを調達する。佐久間は桑野の犯行を供述するビデオを見て、「ちょっと魔が差したんだろう」と言う。桑野の言動、佐久間の「魔が差した」という言葉。これらが全てその通りだとすると、桑野はアンダーパスの交差点内のトンネルで「魔が差した」ことになる。
アンダーパスの交差点内のトンネル内部をよく思い出してみて欲しい。そこには何があっただろうか。刑事の高部は桑野のアパートを調べた後に、凶器の特定のためだろう、このトンネル内部を訪れている。その時、高部は明滅するトンネルのライトと、流れる水を見ている。
ライターの火と流れる水。間宮が催眠の際に用いたこれらのものに、それはよく似てはいないだろうか。


私たちの多くは、むしゃくしゃしてもやらないルートを行く。だが犯人たちは、むしゃくしゃしてやるルートを行く。私たちから見えないのは、その交差する点、アンダーパス内のトンネルである。オーバーパスを行く私たちは、アンダーパスのトンネル内部が見えない。
では、もしオーバーパスを行く者に憤りを感じさせ、アンダーパスのトンネルを潜ったと錯覚させたらどうなるだろうか。アンダーパスのトンネル内部にある光と水を見せたら、どうなるだろうか。
間宮のやったことは、これだろう。
ターゲットは誰でもいい。感情と記憶さえあれば充分である。憤りや不満を感じない者はいない。夫が客人を連れて帰っても、ちょっと風邪気味だからと寝てしまう妻を、女医であることに過剰に反応する患者を、勤務中はタバコを吸わない真面目な後輩を、疎ましく思う程度で充分なのだろう。「むしゃくしゃして(…)やった」の、(…)の部分を錯覚させる、その方法がライターの火であり、流れる水なのである。

そして、私たちは被害者にXの印を見る。
これは、今までの説明をふまえると、上から見た立体交差点だ。映画の中の彼らも、私たちも、ただ、共通するXの印が解らない。被害者に見るのは、その解らないという印なのである。(…)や「魔が差す」ということが解らない、という共通の思い。その印を被害者に刻まれたXは現している。これは、彼ら犯人に共通する、私たちの不可解の印なのである。



もちろん、あらゆる概念は視覚的に置き換えられています。
まだまだ書きたいことはあるのですが、自信が持てないと書けない。
ちなみに、アンダーパス内のトンネルでは、ある音が鳴っていますよ。まだ気づいていない人は、暑くなってきたので、納涼がてら見てみるのもいいかもしれません。『CURE』に関しては、漫画単行本方式で、続きが書けたら同じタイトルに№ふります。

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『未知との遭遇』と『CURE』、そして『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』について

今、集中してスピルバーグ監督作品を観ているのですが、全監督作品観賞の道は険しいです。『1941』(1979年)や『カラー・パープル』(1985年)や『オールウェイズ』(1989年)あたりに手が伸びないです。逆に『未知との遭遇』(1977年)や『A.I.』(2001年)は何度か観ています。去年からスピルバーグ全監督作品観賞計画は進行しているのですが、もう5月。今年中に観たいです。そもそも、このブログもスピルバーグ作品について書こうと思って立ち上げたのですが、観賞が進まないので最近みた映画の事ばかり書いてしまっています。

このような前置きにしたのは、今回スピルバーグについて少しだけ書くからです。
というのも先日『CURE』(1997年 黒沢清監督)を久しぶりに、本当に十数年ぶりに観たのですが、『CURE』が『未知との遭遇』に似ていることに驚きました。少し調べてみたのですが、この事について書いているものが見当たらなかったので、これだけ似ているのだから誰か書いてもいいだろうと思いまして、今回は
未知との遭遇』と『CURE』、そして『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』について
と題して書いておこうと思います。

まずは、『未知との遭遇』と『CURE』の類似点について整理していきます。
両作品ともに未知の存在が間接的な方法を用いてコミュニケートすることにより物語が進行します。


未知との遭遇』ではUFOが、光と5音を用います。
『CURE』では間宮がライターの火と流れる水を用います。
彼らの発する光と音を受け取った者達は、共通の欲求をともなった幻影を持ちます。『未知との遭遇』ではデヴィルズ・タワーのイメージと、そこへ行きたいという欲求。『CURE』ならば、×印と殺意です。

この2つの映画は、未知の存在から言語以外の間接的な方法で一方的に、共通の欲求をともなった幻影を授けられた者達が幻影を表現し、欲求を満たすことで、未知の存在の発する光と音が、彼らに何を与えたのかが分かるという構造を持っています。鑑賞者は、それらを授けられた者の行動により、はじめて未知の存在の不可解な様子の意図を確認することが出来るのです。
以下に、物語を構成する要素を整理します。

(誰が)未知の存在が、(何を)共通の欲求をともなった幻影を、(どのように)音と光を用いて、(誰に)複数人に授ける物語。

未知との遭遇』におけるデヴィルズ・タワーのイメージと、そこへ行きたいという欲求。『CURE』における、×印と殺意。未知の存在は、これらの共通の欲求をともなった幻影をなぜ授けたのでしょうか。
未知との遭遇』では、授けられた欲求と幻影に導かれたロイが、デヴィルズ・タワーへ行き、UFOのマザーシップ(だと思われるもの)に乗り込んで終了します。
『CURE』では刑事の高部が、間宮のようにライターの火や流れる水を用いずに、他者に欲求をともなった幻影を授けることが可能になったことが仄めかされて終了します。
両作品ともに、共通の欲求をともなった幻影は複数人に授けられますが、そのことにより直接的もしくは間接的に導かれ、次の行動なり状況なりに移行するという変化が訪れる者がいます。そして、次の行動なり状況なりに移行するという変化が訪れた(と思われる)時点で映画が終了するところも同じです。
これらをふまえると、この2つの映画は、

(誰が)未知の存在が、(なぜ)誰かを変えるために、(何を)共通の欲求をともなった幻影を、(どのように)音と光を用いて、(誰に)複数人に、授ける物語といえます。

以上の前置きをふまえまして、これから『未知との遭遇』と『CURE』において描かれる未知の存在について、また『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の聖櫃について書いていきたいと思います。

まず、『未知との遭遇』と『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の両方を観ている人は気づいているかもしれませんが、『未知との遭遇』のデヴィルズ・タワー頂上の場面と、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の聖櫃の儀式を執り行う場面はよく似ています。
この2つの映画のクライマックス場面は、夜(暗い所)に、円形劇場のような所で、舞台位置にUFOもしくは聖櫃があり、光るUFOの昇降口(四角)もしくは光る開いた聖櫃の口(四角)から幽霊のような存在が出てくるのを皆で見るのです。暗い劇場のような所で四角い光から出てくる幽霊のようなものを皆で見るという、映画のメタファーだろうと思われる状況が描かれています。
以下は『未知との遭遇』について書かれた文章の引用です。

伊藤計劃侵略する死者たち」(「ユリイカ2008年7月号」青土社、105頁以下)105、106頁。
~引用~
≪前略≫…公開当時、すでにマザーシップを映画のメタファーとする指摘はあったようだ。黒沢清氏・青山真治氏なども論客として参加した『ロスト・イン・アメリカ』という書籍では、それが「映画」というよりはある大文字の映画的存在(「シネマ」と形容されている)、映画存在であることを保障するフレーム的な理念若しくは規範ではないか、という解釈が安井豊氏によってなされている。…≪後略≫

これは、稲川方人編集『ロスト・イン・アメリカ』(デジタルハリウッド出版局、2000年)を伊藤計劃氏が引用している箇所なのですが、当の『ロスト・イン・アメリカ』が入手出来ていない為、なんとも間接的な引用になってしまいました。
未知との遭遇』において、登場人物が見ているUFOが映画的存在だということは、公開当時から既に指摘されていたようです。また、ここで触れられている『未知との遭遇』の場面と、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の儀式の場面は、殆ど同じ状況が描かれていることから、聖櫃もまた映画的存在のメタファーであるといえます。

しかし、『未知との遭遇』のUFOと『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の聖櫃には大きな違いがあります。それは、光の威力です。
未知との遭遇』では、街に現れたUFOの光を浴びた者が、その光により日焼けをします。またマザーシップとの遭遇場面では、人々はサングラスを着用し、光る船体を仰ぎ見る場面が描かれています。このことから、UFOが放つ光の威力は真夏の太陽光程度だと推察されます。
次に『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では、移動中に聖櫃を納めていた木箱が焦げる描写があり、クライマックスの儀式が行われる場面では、聖櫃が開けられた時に放たれた光を見た者が、その光を浴びて溶け出し、聖櫃の中へと消えてゆきます。このことから、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では、『未知との遭遇』のUFOが放つ光とは比べものにならない程に光の威力が増していることが分かります。光というよりも、その描写から光る熱線として描かれているようです。またこの時、この光る熱線の威力から逃れるために、インディがマリオンに告げた方法が「見るな」だったことから、やはり聖櫃が映画的存在として描かれていることが伺えます。このインディの「見るな」の台詞に対をなすのが『CURE』における間宮の台詞「見て」です。映画的存在は「見て」もらわないことには、何の影響も与えることが出来ないのです。

ここで注意しておかなければいけないことは、『CURE』における映画的存在は間宮ではないということです。医師の宮島に間宮が接触し、暗示のような行為を行った際に、間宮は宮島に流れる水を「見ろ」と促します。言われたままに流れる水を宮島は注視しますが、一瞬注意が逸れて宮島の視線が間宮に移った際に、間宮は宮島に「見ないで」と自分から視線を外すように促すのです。
また、『未知との遭遇』ではUFO、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では聖櫃と、形を変えながらも同様の存在として描かれていることから、映画的存在とは厳密にはUFOや聖櫃ではなく、あくまで光や音、流れる水といった形をもたないものなのです。

また、これら3つの映画は、未知の存在を映画的存在として描き、その影響が動力となり進んでいく物語を、主に神話や民話に見られる、見てはいけない、とされるものを見てしまったために悲劇や離別、恐怖が訪れる、というパターンの話である「見るなのタブー」「見るなの禁止」「禁室型」とよばれるモチーフを用いて描いているところも似ています。
未知との遭遇』に悲劇や離別、恐怖が訪れているのか、と疑問に思うかもしれませんが、主人公ロイは盲目的な欲求を授けられ、ほとんど自覚もなしに家族と離別します。家族との離別を悲劇とし、それを回避しようとするなら、そもそも光を見てはいけなかったのです。
『CURE』では、この映画が「見るなのタブー」を扱った物語であることを示すかのように、高部の妻:文江がヘルムート・バルツ『青髭-愛する女性(ひと)を殺すとは?』(新曜社、1992年)を朗読する場面から始まります。そして、見てはいけないライターの火や流れる水を見てしまうことで次々と殺人(恐怖と悲劇)が起こっていきます。それと同時に観客は高部の心のうちを次々と見せられ、不可解な殺人が起こる現実的世界へと映画は収斂していきます。
レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では、主人公インディがメタ的な判断から、見ることによってもたらされる悲劇や離別、恐怖を回避します。「見るなのタブー」を知っていて、そのパターンの物語の中にいる、という自覚をインディは持っていたのです。驚きの結末です。

未知との遭遇』と『CURE』、そして『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』、どれも映画的存在を見てしまうタブーについて描いているといえます。それと同時に映画とはタブーを描くこと、という認識もあるようです。
何をタブーとするかは、鑑賞者によって認識の違いが当然ありますが、『CURE』は、映画的存在を見てしまうタブーについて描きながら、同時にタブーを描き出しているのに対し、『未知との遭遇』と『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では、映画とはタブーであるということ、そのことを描いています。『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』でのインディのメタ的な台詞から、スピルバーグがタブーを描くまで、あと少しのような気がします。

本当はそれぞれ細部に触れて書きたいこともあるのですが、今回は類似点について書き留めておきたかったので、こんなもんです。『CURE』に関しては、書いている人も多いので、作品の理解を深めるためなら色々漁れるかと思います。ただ、「見るなのタブー」に関しては、突き詰めると心理学の領域なので、書ける気がしません。
今回の類似点の書き出しは、書いている人がいないという理由もあるのですが、『CURE』と同じくらいスピルバーグ作品についても、もっと色々解釈が出てきてくれたらいいな、と思って書きました。

最後に、これが個人的には一番のヒットだった類似点を示しておきます。
『CURE』のコレ。

コレをほどくと、『未知との遭遇』のコレになります。